東海道五拾三次之内 02 品川
これは、品川宿入口あたりの東海道と、その先に見える東の海を描いたものです。
品川宿は日本橋から約8kmほど距離で、日本橋を早朝4時前に出発すると、ちょうど朝日の登る頃に到着する距離でした。江戸の人たちは健脚だったんですねえ。
日本橋をでて、京橋をわたり、銀座を抜けると汐留です。廣重がこの画を描いた67年後ぐらいには、この写真左側に日本初の鉄道のための駅、初代新橋駅が誕生します。
そこを過ぎると、徳川幕府の菩提寺である増上寺の大門前を通り、芝まで来ると道がすこし右に曲がり、左回りの大きなアーチを描いて進んでいきます。江戸の頃はこのアーチに沿って、左側はすぐに海でした。芝から品川までは、月の名所として、秋には沢山の江戸市民が訪れていました。
このアーチの道が田町駅を過ぎたあたりが札の辻で、この直ぐ左側から品川駅まで、現在、巨大な再開発事業が進んでいます。新しくできた駅、高輪ゲートウエイ駅の周辺整備に伴う広域な街づくりです。
少し拡大した地図をご覧ください。品川駅が近くなると右側には、プリンスホテルが林立しているのが見えてきます。
ここで、当時の海岸線の状態がわかるJHICO MAPを重ねてみます。現在の品川駅あたりは砂浜の続く遠浅の海だったことがわかりますねえ。ここであの落語の名作、「品川心中」の、海に飛び込んだけれども死ななかったという、お話しが成り立つわけですね。
江戸時代は、さらに先に行くと、進行方向の右側に八ツ山と、御殿山という二つの山がありました。
それを廣重が三枚続きの画で描いています。御殿山は、海の見える平らな芝生の広い台地で、江戸市民に人気の花見の場所でした。左に立ち並ぶ品川宿の家々と、東海道を歩く沢山の人々が描かれています。これを見ると、品川の街と江戸湾の関係がよく分かりますね。
しかし、廣重が五拾三次を描いた約20年後に、突然黒船が現れ、幕府はあわてて江戸防衛を考えざるを得なくなりました。そのため江戸湾に砲台を据える台場を造ることになり、その土を確保するために、八ツ山と御殿山は崩されてしまいます。その7つ造る予定だった台場のうち、三つが右側に見えていますね。第一台場は、「利田新田」と書いてある場所で、現在は品川区の台場小学校になっています。
ここで地図を現代に戻して、廣重の視点を赤いグラデーションで表してみます。これで、だいたいの廣重の目線が見えてきますね。
次に、品川宿全体を見ている国土地理院の地図をご覧ください。これにまだ江戸時代の様子が残っている明治14年の地図を被せてみます。これにも東海道を描き入れています。明治時代の前期ですら、品川宿は、海に面した街だったことが分かりますね。
品川の街は目黒川の河口に位置していて、最初にこのあたりに漁村が形成され南北に広がっていきました。やがて、品川は、幕府から正式に宿場町としての指定を受け、問屋場や、旅籠、茶店が増えていきます。
北は八ツ山口、南は青物横丁と鮫洲の境までの全長約2km、本陣が1軒、脇本陣2軒、旅籠屋111軒、水茶屋64軒、約7000人が住んでいたとされています。
そこで、品川宿は目黒川を挟んで、南は南品川、北は北品川、そして、一番北の歩行新宿(かちしんじゅく)という三つのゾーンに分かれていました。この、青いゾーンの歩行新宿は新しく旅籠や茶屋が発達していった場所で、税金を免除され、最後に品川宿に加えられた場所です。
廣重は、この歩行新宿に入ってすぐぐらいのところを描いていました。
ここで廣重の画をご覧ください。
日本橋を七つ前に出た旅人は、明け六つには、品川に達したと言われています。副題に「日之出」とあるように、ほんのり赤く染まる雲と青空が見事に描かれています。ちょっとわかりづらいのですが、初摺りでは、左側の帆を下ろした船の先に、わずかに朝日が顔を見せています。
この画はちょうどその品川宿の北のはずれ、宿の入口に当たる部分を描いたもので、宿の入口を示す傍示杭が真ん中あたりに描かれていることでもわかります。道路には、大名行列の最後の一行が描かれ、見物人もここまで来ると頭を下げる人もおらず、ただ見物している姿が描かれています。
海には当時の大型船である弁才船が多数描かれ、その先には鮫洲から遠くに羽田あたりまで見えています。右の山は、八ツ山のようですが、少し極端に急坂のように描かれているようです。品川は、東海道の位置的に、江戸から旅に出る人と、それを見送る人が別れを惜しんだ場所でもありました。
歌川豊国が描いた、当時のお月見の画をご覧ください。品川は江戸時代に、旅籠に飯盛り女と呼ばれる遊女をおく事を許された場所でした。そのため、北と呼ばれる吉原遊郭と対照的に南と呼ばれて、歓楽街として賑わっていました。さらに江戸前と呼ばれる魚介類にも恵まれ、秋には月の名所として、有名な料亭なども軒を連ねていました。そのため、品川宿は、宿場だけでなく江戸から簡単に日帰りのできる、行楽地としての顔も持っていました。
品川宿の画には、副題まで変えた変わり図があります。
変わり図は、大名行列の構成が違っていて、人数も増えています。
隷書版は、目黒川を越えた先、南品川の鮫洲あたりの茶屋から北品川方面を見ています。弁才船の先には、高輪あたりまで見えています。
行書版は、やはり鮫洲の朝の景色ですが、海には海苔ヒビと海苔漁師が描かれていて、茶店の客は、看板にある名物の穴子茶漬けを食べ終えたところのようです。江戸前の名物ですね。
狂歌入りは軒を連ねる北品川の旅籠と東海道を描いています。右の奥には、目黒川に沿った、洲崎の漁村も描かれ、ここには利田神社という漁師が頼りにしていた弁天様がありました。
これらを連続してみてみると、北方向からの連続した景色となり、何となく当時の品川の様子がわかったような気になってきますね。
実際にこの場所であろう、というところに行ってきました。当時海が見渡せた左側の景色も、ビルだらけになっています。
もう少し南側、当時品川で一番有名だった土蔵相模という料亭の前から、東海道を見た景色です。その東海道は現在、カラー舗装された、一方通行の商店街になっています。
これは廣重の視点から左、つまり海方向を見た写真です。坂を下りた先の交差点あたりは波打ち際だったはずなのですが、その先もずっとビルが続いています。
現在の品川宿を、GoogleMAPで上空から見てみてもどこが海?という状態になっています。時代を感じますねえ。当時はこの左側のビルの先に、わずかに見える道路あたりがもう海でした。
もう少し上から見たGoogleMAPもご覧ください。一緒にこの先の東海道もオレンジ色で入れてみました。
これに当時海だったであろう地域を、青く塗ってみました。いかがでしょうか。海辺の歓楽街だったはずの品川宿は、わずか200年弱ぐらいで、鉄道が通り、広い道ができ、山は崩されて、遠浅の海を埋めていきました。今では、埋め立てから免れた運河に、品川浦船溜りの案内板が残されていて、ここだけが海の痕跡を残しています。
東海道はこの先、右奥の川崎宿に向かいます。



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