03 川崎 六郷渡舟

日本語版

この画は、現在の多摩川の六郷橋あたりにあった、「六郷の渡し」を北側から見た景色です。品川宿から川崎宿へはちょうど10kmほどの距離があり、途中、多摩川を船で渡る必要がありました。

現在、東海道の品川宿のあたりは、北から南への一方通行の道路で、北側は商店街、南側は住宅街となっています。それが第一京浜と合流するあたりが、鈴ヶ森です。

これは、このあたりの東海道を、江戸に向かって大名行列が通っている画です。東海道のすぐ脇が海で、その海は海苔ヒビだらけだったのが分かりますね。
鈴ヶ森は千住の小塚原と並び称される江戸時代の刑場で有名ですが、有名な八百屋お七を始め、220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われています。当時の東海道を通る旅人は、この鈴ヶ森の刑場を忌み嫌って、別の道を主に利用していたとのことですが、それがどのコースなのか、はっきり分かりませんでした。

今でも実際に使われたものなのか、火炙台や磔台の礎石などが残されています。すぐ脇には今も、大経寺(だいきょうじ)という供養の寺も建っています。

第一京浜と合流して、平和島あたりですぐにまた左に逸れて細い道になってしまいます。この道は地元では美原通りと呼ばれていて、今でも何となく江戸の頃を彷彿とさせる通りとなっています。

美原通りが大森警察のあたりでまた、第一京浜と合流し、しばらく行くと右手に並行する京浜急行線の梅屋敷駅が見えてきます。この駅の名前の元となった梅園が少し先の右側にあり、蒲田の梅園と呼ばれていました。和中散(わちゅうさん)という道中常備薬を商う山本久三郎が、ここで梅の名木を集めて広大な庭を造り、東海道を往来する旅人を相手に、茶店を開いていました。

広重はこの蒲田の梅園を、名所江戸百景で採りあげて描いています。当時は亀戸と並び、江戸では有名な梅の名所でした。今では、聖蹟蒲田梅屋敷公園として、その一部が保存されています。

東海道は呑川と環八を過ぎて、しばらく第一京浜と一緒に進み、そのまま多摩川の土手に突き当たります。

この土手を上がってみると多摩川の河川敷にグランドなどが造られているのがわかります。当時はもっと川幅が狭く、今の六郷橋より、少し東側に渡し場があったようです。

多摩川を渡って直ぐ左は、川崎大師に行く大師道がありました。

右に行くと、川崎宿の入口です。当時ここには、万年屋という茶店があり、バランスのとれた栄養食の奈良茶飯が有名でした。煎茶で炊いたご飯のお茶漬け、奈良茶飯はこの頃の旅人にはありがたい道中食で、多摩川で採れたシジミの味噌汁も付いていたそうです。さらに奈良茶飯は、川崎大師の参詣客にも大人気で、わざわざ立ち寄っていく参詣者も多かったようです。

さて、広重の画を詳しく見ていきましょう。
当時の多摩川は、このあたりでは六郷川と呼ばれており、その渡し船が間もなく川崎側に到着するというあたりを描いています。下船の準備ができて、ゆっくりキセルをふかしている人、未だ荷物をまとめている人、世間話をしている武家の一行三人組など様々な人物が描かれているあたり、広重らしいですねえ。船頭の力を込めた棹捌きも、見事です。

対岸では、舟の到着を待っている米俵を積んだ馬、駕籠に乗った客、なにやら拾い物をしていいる船頭などがいます。奥には船賃を徴収する小屋、右側遠くには雪を頂く富士山が見えています。あたりまえですが、当時の川は、高い堤防を作ったりせず、そこに流れるままに渡しなどに利用されていて、渡し場の周りには竹矢来が回らされていました。

この画には変わり図があります。
富士山の輪郭がなくなり、船頭の服装と姿勢が変わり、民家の屋根の傾斜角度や描き方が違ってきています。画の左側の処理も全く違っており、副題のハンコも白抜き文字ではなくなっています。

隷書版は、二艘の渡船がすれ違う姿を下流から真っ直ぐ見た画です。多摩川を行き来する弁才船も正面から描かれています。多摩川が、物流の輸送経路としても使われていたことがよく分かりますね。

行書版は、六郷側からすれ違う船を主体に描いていて、遠くに富士山を大きく入れています。二艘の舟には客が隙間無く乗っており、編み笠や傘が並んでいるので、真夏の景色なのでしょうねえ。実際に方向的にも、富士山がよく見えたと思われます。

狂歌版は、六郷側の乗り場から少し下流側を見ていて、川には係留された舟の他に筏なども描かれています。火事の多かった江戸の材木需要を見越して、青梅方面からの材木輸送も大きな産業だったようです。

実際にここに行ってきました。これは、多摩川サイクリングロードの土手から六郷の渡し方向を撮ったものです。江戸時代と比べると、川幅は違っていて、渡しの場所も正確にはわからなくなっています。

相変わらず川辺には、重機が入り工事をしていて、この日は川の脇まではいけませんでした。

これは、大正7年に発行された本に載っていた現地の写真です。実際に六郷土手駅の老舗和菓子屋さんのご主人は、昭和の最初の頃でも、川幅はずっと狭く、土手ももっとずっと川寄りだったよ、と証言してくれました。

これが川崎側から見た六郷方面の写真です。今は大きな六郷橋が架かっていますが、「六郷の渡し」は、東海道における八幡塚村と川崎宿の渡しで、江戸の玄関口の渡し場として、交通上極めて重要でした。江戸初期には、徳川家康が作った六郷大橋がありましたが、1688年の洪水で流されてしまい、以後明治7年になるまで、ここには橋はかけられませんでした。

工事途中の多摩川のGoogleMAPで、六郷の渡しを想定して少し上から見てみました。
この渡船の管理は、当初江戸の町人らが請け負いましたが、1709年からは、田中本陣の当主が、幕府に働きかけを行い川崎宿が請け負うことになり、この渡船収入が川崎宿の財政を大きく支えていました。

もう少し上から見たGoogleMAPに、ここだろうという東海道と六郷の渡しを描き入れてみました。
宿に課せられた宿駅伝馬制度は、公用の旅人や物資の輸送は次の宿駅まで無料で送り継ぐというものでした。交通量の多い川崎宿はこれに苦しめられていたので、この六郷の渡船収入は文字通り渡りに船でした。

川崎宿がもっとも栄えていた頃には、3つの本陣がありましたが、江戸中期以降には、参勤交代の数も緩和され、各大名の財政難、大飢饉や天災なども影響して再び活気がなくなり、本陣のひとつは廃業し、宿としての川崎は寂れていきました。

アメリカの駐日総領事ハリスが、宿泊予定の田中本陣のみすぼらしさを見て、宿を万年屋に変更したという話も残っています。川崎宿はこの画が描かれた頃、多摩川縁から長さ約1.4kmで、戸数は約500軒、人口は約2,500人ぐらいでした。

もう一度広重の画を見てみると、なるほど、後ろの集落は既に川崎宿の家並みだったということがよくわかりますねえ。ちょっと先に行くと左側に、万年屋があり、大人気だった名物の奈良茶飯に出会えたかもしれません。

多摩川を船で越えた東海道は、川崎宿を過ぎると、神奈川宿に向かいます。

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