05 保土ヶ谷 新甼橋

日本語版

この画は、現在の相鉄線天王町の駅前にあった新甼橋という橋を、北側から見た画です。

神奈川宿から保土ヶ谷宿までは約5キロほどですが、これは本陣同士の距離なので、前回、神奈川宿で画になっていた臺町から、この新甼橋までは、ほんの3kmほどでした。

東海道を臺町から下りてくると、首都高速をくぐるあたりで、大通りになり、浅間下交差点先で再び小道に入ります。当時は、この右横の浅間神社が、東海道を旅する人の道しるべになっていました。

もう少し下ると八王子街道との追分になり、右に行くと八王子や、大山方面に行くことができました。追分を越えると、東海道は松原商店街となります。正式名は洪福寺松原商店街という、この神奈川では一番有名な商店街です。

その商店街を通って国道16号線を越えて進んでいくと、右側に橘樹神社(たちばなじんじゃ)が見えてきます。さらに現在の帷子橋を渡ると、東海道は唐突に天王町駅の下をくぐることになります。

駅前から振り向くと、帷子橋が少し高くなっていて、その先もずっと商店街が続いているのが見えます。

駅のホームから見ると、もっとずーっと先まで商店街が続いているのがよく分かりますね。

これは天王町駅南側をホームから見た写真です。再現された旧帷子橋をわたると、緩く左にカーブし、大通りの環状一号線と合流して約1.3kmほど、ほぼ直線で南下していきます。

この旧帷子橋の先の三つの町が、1648年に東海道を整備した時にできた新しい町なので、新町と呼ばれるようになり、旧帷子橋は新甼橋とも呼ばれていました。

この新町が終わるあたり、今のJR保土ヶ谷駅あたりの先には問屋場があり、その先、追分で、左に折れると金澤浦賀道で、弘明寺を経て、金沢や浦賀に行くことができました。した。さらにまっすぐ行くと、保土ヶ谷宿の本陣に突き当たりました。

帷子川と新甼橋の変遷を見るために、国土地理院の天王町あたりの地図をご覧ください。
その地図に東海道を描き入れて、それに明治14年の地図を被せてみます。

江戸時代は、北側からやって来た東海道は、帷子川で、少しクランク状態になって、再び同じ方向に進んでいきます。しかし、1956年、帷子川の川筋を天王町駅南側から北側に付け替え、それに伴い、帷子橋も位置を移し、コンクリート橋の今の橋となりました。
1964年には、改修以前に架かっていた橋が現在の天王町駅前公園にモニュメントとして復元されました。

現代の地図に戻して、広重の視点を赤いグラデーションで入れておきます。

広重の画を詳しく見ていきます。
橋を渡って行くのは深編笠の虚無僧と、駕籠に乗った武家と、それに付添う家来と供の者で、対岸からやってくるのは菅笠を被った武士の一団ですね。橋を渡った先にある、女性が二人佇んでいる店は蕎麦屋で、二八と書かれていることで分かります。他の紀行文を見ても実際にここに休憩所を兼ねて、蕎麦屋が存在していたようです。

画の左側は東海道の東側で、田園風景がのどかな感じですが、現在は西久保町あたりで、JRの線路と国道一号線が賑やかに走っています。右の先の山は、永田から狩場の山ではないかと思われます。また記録によると、当時の橋は長さ15間(27m)、幅3間(5.4m)となっているので、少し小さめに見えますね。
この画は、初摺りに近いのですが、ちょっと痛んでいます。

せっかくなので、状態のいい後摺りもご覧ください。初摺りとの違いは、後ろにある山際と民家の屋根に、ぼかしが無くなっていて、全体にあっさりした感じになっています。

これは、広重が参考にしたと言われる江戸名所図會です。広重とは逆に保土ヶ谷宿側から見ています。左下の蕎麦屋が新甼側の休憩所として使われていました。二八と書かれているのが分かりますね。この橋は、実際の大きさを反映しているようです。

これは、大正7年頃に広重と同じアングルで新甼橋を捉えた写真です。この頃までは、広重の頃とほぼ同じ状態で、新甼橋があったようです。

隷書版は、橋をほぼ正面から捉えた、雪景色となっています。橋が長めに描かれ、菅笠に簔や道中合羽を着た旅人が、そこを寒そうに歩いて行きます。

行書版は、蕎麦屋の裏の桟敷で、旅人がくつろいでいる姿が描かれています。橋の上では、駕籠舁きと、行商人がすれ違おうとしています。色から見ると新緑の景色のようです。

狂歌入りは、保土ヶ谷宿のほぼ終わりあたり、権太坂を登った先にある境木立場の様子を描いています。立場とは、旅人の休憩所のことですが、ここはとても眺めが良く、茶店で足を止めるには、絶好の場所で、大変賑わっていました。この少し先には、金運に御利益のある境木地蔵もありました。

もう一度広域地図をご覧ください。幕府の公的記録だと、保土ヶ谷宿は、右上の緑色の玉のある、八王子道の追分あたりから、権太坂を上った先の境木の立場あたりまでの水色の破線部分でした。その距離は約5キロほどで、とても長い宿場だったことがわかります。また境木は、その名の通り、相模国と武蔵国の国境でもありました。

実際にここに行ってきました。この場所はいま、天王町駅駅前公園になっていて、川はなくなっていますし、橋も板張りになっているただの歩道です。橋と呼ぶにはいささか難がありますが、廣重が描いたのは間違いなく、この場所です。

葛飾北斎は富嶽三十六景で、保土ヶ谷を描いています。これは権太坂を登った先の、境木か焼餅坂あたりから見た景色です。このあたりがいかに眺めがよかった場所だったのか、想像できますね。

広重も狂歌入りでは、境木を描いていますが、シリーズ最初の五拾三次、保永堂版であえてその名所を避けて、保土ヶ谷宿の東の入口である、新甼橋を画のモチーフに選んでいます。

実は当時、新しいと書く、「新」のつく街といえばどうしても艶っぽい響がありました。江戸の新吉原、内藤新宿、品川の「徒歩新宿(かちしんじゅく)」など、大坂であれば、夕霧太夫で有名な新町遊郭でした。当然、保土ヶ谷宿の新町にも旅籠があり、「飯盛女」という非公認の遊女のもたくさんいました。

当時、旅籠といえば、飯盛女がいるのが当然で、宿場の遊郭の役割も持っていて、職業としての遊女の存在そのものも、あたりまえの文化となっていました。

広重は、この広い保土ヶ谷宿の、旅情をかき立てるために、眺望のいい境木を捨てて、わざと帷子橋を描きました。さらに、橋の名前も色街ふうに聞こえる新甼橋を副題にしました。今は有名になった洪福寺松原商店街の隆盛も、終戦後焼け野原だった洪福寺周辺が、赤線地帯となり、大変賑わったことが始まりだといわれています。

新甼橋辺りからこの先を見た、GoogleMAPストリートビューをご覧ください。
正面には、箱根の山々と、右側に富士山も見えてきました。
オレンジ色で示した東海道が、ほぼ保土ヶ谷宿エリアになってしまっています。こうして見ても、保土ヶ谷宿がいかに長かったかが、分かりますね。
東海道は保土ヶ谷宿本陣を過ぎると、権太坂を登り、眺めのいい境木あたりから東戸塚の東側を通り、戸塚宿に向かいます。

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