三島は三島大社の門前町として栄えました。この画はその象徴的な鳥居の前で、今、出立しようとしている旅人の、朝の風景を描いています。
その当時、小田原宿から箱根宿の4里、箱根宿から三島宿までの4里、その総距離を箱根八里と呼んでいて、東海道の中で地理的に最大の難所とされていました。
箱根宿から三島宿までは、正確には約15kmで、箱根宿をでるとまずは箱根峠まで、たくさんの坂道を登っていかなければなりませんでした。
最初に芦川の石仏群の脇から、「向坂」「赤石坂」「釜石坂」「風越坂」と順に登っていきます。
次の「挟石坂(はさみいしさか)」からは、道路改修でなくなった旧街道を、一号線で箱根峠に向かいます。箱根峠を越えると伊豆国に入り、今度は下り坂になります。
しばらく行くと、接待茶屋と呼ばれる、東海道の旅人をもてなした施設の脇を通ります。ここは、箱根の山越えの苦労を目にした江戸の商人加勢屋與兵衛が、基金を拠出して始めたもので、実際に昭和期ぐらいまで稼働していて、苦労する旅人のお世話をしてくれていたそうです。
東海道は、このあたりでは箱根旧街道と呼ばれて、一号線とつかず離れず下って行き、やがて山中城跡の脇に達します。ここからは天気がよければ、富士山もきれいに望めます。
笹原の一里塚あたりでは、石畳が残っていて、旧東海道の面影を偲ぶことができます。また、左手に伊豆半島や沼津の街並みも望むことができます。
その後も、東海道は、長坂、時雨坂や臼転坂(うすころげざか)など様々な名前の付いた坂を下り、伊豆縦貫道あたりで、一号線と合流します。その先錦田一里塚あたりでは、右手に富士山がきれいに見えてきます。
東海道は再び1号線と別れて並行に進み、松並木と石畳の道を進みます。この先、愛宕坂を下り、JR東海道線を越え、今井坂を登っていきます。結局、三島まではずっと坂ばかり下っているということがわかりますね。
少し行くと新町橋で大場川を越えると三島宿に入っていきます。この大場川は三島大社の神域だったため、地元住民からは「神の川」と書いて「かんがわ」と呼ばれていました。ここから約1400mほど先の境川の千貫樋(せんがんどい)までが三島宿の範囲で、江戸幕府の天領でした。本陣2軒と旅篭数は74軒で、箱根を控えた宿場として大変賑わっていました。
右手に大きな鳥居が見えてくると、そこが三島大社で江戸時代には三島神社と呼ばれ、伊豆の国の一宮として、源頼朝を始め、多くの武家から絶大な信頼を得てきました。
広重は、この鳥居の前の景色を副題「朝霧」として描いています。
この鳥居の前を左に行くと下田往還となり、湯ヶ島、天城峠を経て、下田まで行くことができました。
広重の画を詳しく見ていきましょう。
まず、右側に見えている鳥居は三島大社の一の鳥居です。このすぐ前が東海道となっていて、広重は、東海道に立って、西方向を見ていることになります。中央に駕籠に乗った客と駕籠かき、それに荷物を持つ家来、軽尻馬に乗った客とそれを操る馬子、が描かれています。早朝の東海道を箱根方面に向かっているところですね。
駕籠と馬の二人とも、眠そうにうなだれているところがいかにも朝の感じです。この旅人集団以外は、すべて、起伏のない薄く影絵のような描き方で、朝の霧の中を描いている表現になっています。さらにぼかしも駆使して、一層霧が立ちこめている雰囲気を醸し出しています。
実は、この画は後摺りで、状態が良かったので今回採用しました。
これが初摺りですが、折り目や汚れなど状態の悪いところをかなり修正しました。画全体にもう少しはっきりとした、モノクロームの影絵表現になっています。色味も一番上の一文字と呼ばれるぼかしが黒になっていて、全体にモノクロームの感じで、朝の雰囲気は良くでているのではないでしょうか。
もう一度、後摺りをみてみると、今度は明るく派手な感じがします。不思議ですね。
隷書版は、鳥居前の旅籠を中心に描かれています。鳥居前の東海道が随分と広く描かれています。また、鳥居横の大きな木は実際にはなかったようで、鳥居左の下田往還も省略されていますね。
行書版は、境川の千貫樋あたりから三島宿経由で箱根側を見ている画のようです。実際には、これほどの起伏はありません。
狂歌入りは、雪の日に、今の源兵衛川にかかる橋を下流から見た画ではないかと思われます。橋の左で、人が描かれているあたりが今の鰻の桜家の場所ですね。
北斎の富嶽三十六景もご覧ください。これは、三島と箱根の間ぐらいにあった、山中城の脇にあった有名な大木、「矢立の杉」を描いたものです。古来武将が出陣の際、表矢を射立(いた)て、勝敗の吉凶を占ったことから「矢立の杉」といわれています。戦国時代には大きな戦で、杉の木に多くの矢が突き刺さり、木から赤い血が流れ出たという伝説もあるそうです。
実際にここに行ってきました。当時と道路幅も違うのですが、鳥居が前に出て、灯籠が境内側に下がっていますね。旅籠が林立する景色は、今はなく、遠くに高いビルが見えているのが今風ですね。今では、国道一号線もバイパスとして南側を通っているので、交通量も随分と少なくなっているようです。しかし、この場所を含めたこの先が、今も三島の中心地であることに変わりはありません。
この写真を朝霧のように見せて、全体の大きさを広重の画に合わせ、旅人をはめ込んでみました。こうして見ると、現代的なものはとにかくこの場所の景色は、当時とあまり変わっていないようです。
三島大社の創建は不明ですが、地名の三島は、ここから来たと言われている、とても古い神社です。また、奈良時代に伊豆の国府が置かれた場所でもあり、源頼朝の旗揚げ以降、武士たちの信仰も篤く、伊豆の一宮として発展し、門前町の中心となってきました。ちょうどこの時、境内の枝垂れ桜がとても綺麗で、たくさんの人で賑わっていました。
廣重が描いた鳥居を後ろから見ると、真っ直ぐに下田往還が延びていて、伊豆の中心でもあり、交通の要衝であったことが分かります。
大正時代の写真を見てみると、灯籠は鳥居の前と後ろの両方に見えていますね。道路拡張の影響でしょうか。
江戸時代は、箱根を越える前に宿泊する客と、箱根を越えてから宿泊する客で、繁盛を極めていたと言われてます。ノーエ節で有名な「三島女郎衆」などという言葉も生まれるほど、たくさんの飯盛り女もいて、宿場全体が歓楽街としての役割も持っていました。今では、宿場町というより、桜家を始め美味しい「鰻の三島」で有名になっています。
広重が描いた場所の上空からGoogleストリートビューで見てみました。オレンジ色の線が東海道になります。写真ではわかりづらいのですが、沼津まではほぼ緩やかな下り坂になっていて、途中の小さい児童公園の蛇口をひねっても、いつでもミネラルウォーターがでてくるほど、水に恵まれた地域です。左の山の手前には、富士の湧水で有名な柿田川公園も見えていますね。駿河湾の特産である桜えびは、この富士山の湧水があるからこの地域にだけ育つという研究者もいます。こうして見ると、江戸幕府が三島を天領としたのも頷けますね。
最後に、広重が亡くなる二年前に創業した三島の鰻屋、桜家のうな丼をどうぞ。富士の伏流水で泥抜きした鰻です。真ん中に釣り針が見えているのは、天然鰻だったという証拠ですね、とても美味しかったです。



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