東海道には、江戸から京都に向かうときに右側ではなく左側に富士山が見えるスポットが、2箇所ありました。一つは茅ヶ崎の「南湖の左冨士」もうひとつがこの吉原です。両方とも道が大きく北に向き、一時的に富士山が左側に見えてしまうからです。
原宿から吉原宿までは、約12.5kmで、山道ではありませんが、結構な距離があります。
その当時、浮島が原と呼ばれた浮島沼も、薄めに地図に入れ込んでおきます。
東海道は、原宿をでると東海道線を渡り、東柏原あたりで、千本街道と合流します。
東田子の浦駅あたりには間の宿があり、もう少し進むと広沼橋を渡り、そこには沼田新田の一里塚がありました。
吉原駅手前では、東海道は大きく右に曲がり、東海道線の線路をくぐります。
その後吉原駅の北側をぬけて、沼川を渡ります。
少し行くと依田橋手前で、新幹線とバイパスをくぐることになりますが、ここが東から来ると三差路のようになっていて、東海道は真ん中の一方通行出口になっている道になります。ここを越えると道は徐々に右に曲がり、一時的に左に冨士山が見えるあたりとなります。次の信号あたりから先は、運が良ければ、道の正面に富士山が現れます。
左冨士を越えて、道なりに進んでいくと岳南電車の「吉原本町駅」になり、だいたいそのあたりから吉原宿の中心部となります。
東海道の吉原宿は、途中から東海道の本道である上街道と旧道の下街道に別れていました。また、本陣あたりは追分となっており、まっすぐ行くと富士宮を通り甲府まで行く中道往還となり、甲府名物の名前から、別名煮貝街道とも呼ばれていました。吉原宿を右に行くと十里木道で御殿場に抜けることができました。各道路が交わる交通の要衝でもあったわけですね。
吉原宿の始まりは、今のJR吉原駅の南西側の港からでした。今の田子の浦港は、昔は「吉原湊(よしわらみなと)」と呼ばれ、今のように大きな入江のような港ではなく、吉原川の川港でした。ここの鈴川に鎌倉時代には源頼朝が見附(みつけ)を置き、吉原川対岸の前田村へ船で渡るルートをつくりました。
それから340年後の1555年頃に、津波や漂砂のため吉原駅の南東側あたりに、村を移動して、その時に「よしわら」と正式に宿名が定められました。これが元吉原です。初期の東海道の道筋は、依田橋を、道なりに真っ直ぐ抜けていきました。
しかしここも、1639年の高潮により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐために、後に左冨士が見える場所の西側、中吉原と呼ばれる場所に移転しました。
しかしこの中吉原も1680年、やはり高潮で再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町あたりに移転しました。このため原宿から吉原宿まで海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海を背に、北側に大きく湾曲する事になりました。これにより、それまで右手に見えていた富士山が、ほんの300mほどだけ左手に見えることから、「左富士」と呼ばれる名所を生み出すことになりました。
ここで、地形を見るためにApplemapのストリートビューをご覧ください。
高潮のメカニズムを考えると、駿河湾のとても深い水深が、低気圧による「吸い上げ効果」を増大させます。また奥に狭い駿河湾の地形が、強い風による「吹き寄せ効果」も増大させてしまいます。それにこのあたりは、富士山の噴火や、漂砂、地盤沈下など高潮以外の天災も被りやすい場所でもありました。これらのことが、駿河湾の最深部に位置する吉原宿を、どんどん内陸部に押しやりました。
広重の画を詳しく見ていきましょう。
画の中の吉原宿の入口を示す榜示杭の脇に、松並木を進む馬の上に乗る3人の少年が描かれています。最後の一人だけが左に見える富士山に気づいて、その方向を見ています。いかにも広重が意図して冨士を見せているようですね。
この画のように、馬に木組みを載せて子どもを3人を乗せることを、竈の神である荒神様を意味する「三宝荒神」というのだそうで、神具のひとつお三宝のイメージですね。伊勢神宮詣でのときには、真ん中に大人、両サイドが子ども、という組合せもあったようです。
また、子どもを乗せている馬は、草鞋を履いていますが、これは当時珍しいことでもなく、馬の蹄を守るために、馬専用の草鞋も存在していました。そのため、馬子は自分の草鞋と馬の草鞋の両方を常時持ち歩いていました。
隷書版は、やはり左冨士を描いていますが、ちょっと見え方が大げさですねえ。馬に乗った旅人たちも、京都方面ではなく、江戸方面を向いて旅をしています。
行書版は、吉原宿の名物でもあった山川の白酒を提供する茶店を描いています。吉原宿の先、今のJR富士駅北側あたりには、本市場(もといちば)という間の宿があり、白酒が名物でした。「山川の白酒」は、地名のことではなく、「山を流れる川の水が、泡立つと白く見える」ことから白酒は、常套句のように、「山川の白酒」とよばれていました。
狂歌入りは、やはり左冨士を描いていますが、人ではなく富士山がメインになっていますね。縄手道を行くカーブの具合は、ほぼ現実の東海道と一緒です。
北斎の五十三次は、やはり吉原宿の名物、白酒の製造過程を描いています。富士川の近くは餅米が広範囲で栽培されて、それを使った白酒が名物でした。今では、吉原界隈で「山川志ろ酒」として復元され、濁り酒として販売されています。
きれいな松並木の間から左側に富士山が見えるという、この場所に行ってみました。現在は、松並木や縄手道は、工場や民家になっていました。この日は富士山が頂上まで見えずに、ちょっと残念です。
大正7年頃に撮られた写真を見ると、松並木もまだちゃんと残っていたようですね。
このあたりをGoogleMAPのストリートビューで、見てみました。
それにオレンジ色の東海道を被せてみました。広重の描いた縄手道、つまりたんぼ道は何処にも見当たらず、富士川まで、びっしり建物が建っていますね。
この写真で見ているのはほぼ、右から流れる富士川の扇状地です。古代から富士川が吉原宿あたりまで盛んに流れを変え、氾濫をくり返し土砂を堆積してきた歴史があります。
これに廣重の視点を赤いグラデーションで入れておきます。度重なる高潮や災害から逃れるため、幾度となく移転してきた吉原宿は、少し味の違う名所、左冨士を生み出しました。そこも今、落ちついた普通の街になっています。
一時、富士山を左に見せていた東海道は、大きく西方向に向きを変え、この先、富士駅の北側を抜け、甲州から流れてくる富士川に向かいます。



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