16 蒲原 夜之雪

日本語版

この画は、雪が降り積もった山間の坂道を、傘をさして歩く人々を描いています。

蒲原宿は、吉原宿から約11kmあります。まずは地図で富士川までご覧ください。
東海道は、ちょうど吉原宿の本陣あたりで、東海道と、富士宮から甲府に抜ける中道往還、御殿場に抜ける十里木道に分かれます。
さらに東海道は、松岡で富士川を渡る本道の上街道と、河口付近で富士川を渡る下街道に別れていました。

東海道上街道は、志軒橋を渡ると、吉原宿の外となりました。

潤井川を渡って行くと間の宿でもある本市場(もといちば)があり、ここは白酒が有名で、広重が吉原宿の行書版で画にした場所でもあります。

さらに進むと富士早川の用水路にかかる小さな橋には札の辻跡があり、ここは高札場にもなっていました。

東海道は先に進むとJR身延線の柚木駅を過ぎます。そこで道は二手に分かれます。
この先の富士川は天下に聞こえた急流であり、流量も多いことから渡船となっていました。船着場は北から上船居(かみふなすえ)・中船居(なかふなすえ)・下船居(しもふなすえ)の三ヶ所があり、水量や川瀬の状況で使い分けていました。

だいたいの場合、下船居(しもふなすえ)である、今の水神社のあたりが使われていて、そのあたりを船場とも呼んでいました。

対岸は、岩渕集落で、そこから見ると水神社がこんもりとした森になっていることがわかります。

富士川を舟で対岸にわたると、急坂を登って東海道は南下します。

岩渕の急カーブには、目印となる一里塚がありました。

そのまま南下すると一度東名高速をくぐり、実相院の寺標に突き当たりさらに左に南下します。

東海道は今度は東名高速と併走して、やがて橋で、高速道路を渡ります。

道路は大きく右に折れるとその先に東木戸があり、ここからが蒲原宿の始まりです。

さてここで、明治時代の国土地理院の地図と東海道をご覧ください。
吉原宿から蒲原宿にかけてはとても災害の多い地域でした。

この地域はほぼ富士川の扇状地でできあがっている土地で、古代から富士川が流れを様々に変え東の潤井川まで巻き込んで海に流れていました。

その後の砂礫の堆積や、地震による沈下と隆起により、富士川は主に西側を流れるようになります。これが大雑把ですが、現在の富士川の通常河道です。

ここで初期の東海道ですが、元吉原と呼ばれる、今の吉原駅東側から海岸沿いを進み、川成島(かわなりじま)で下街道と合流して、蒲原宿に向かっていました。そのときの蒲原宿も今より少し海側、新蒲原駅の南側あたりにありました。

この元吉原宿は、1639年の高潮により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため宿場そのものを中吉原に移転しました。

しかし、この中吉原も1680年、やはり高潮で再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町あたりに吉原宿として移転しました。ここで地図を空撮に変えます。
その後、蒲原宿も1699年8月に、台風と大潮が重なり壊滅的な被害を受け、宿の人と旅人あわせて60人も流されるという大被害を受けました。翌年には、蒲原宿は現在の場所に移転しています。ただし蒲原宿は、吉原宿と違い、少しだけ山際に移った程度だったようです。

ここでベースの地図を、高低差のわかりやすいものにしてみます。富士川の河口域がいかに低地なのか、わかります。災害が多発していたのも分かりますね。

さて、もうひとつは、富士川との戦いです。
ウィキペディアの広域地図で、富士川全域をご覧ください。富士川は、南アルプス北部、山梨県と長野県の県境に源を発し、幹川流路延長が128km、流域面積が3,990平方キロメートルもある巨大河川です。

その流域面積を水色で塗ってみました。だいたいの広さはほぼ東京都と同じぐらいだということがわかります。この広大な流域に降った雨が岩本山を過ぎたあたりで、下流の扇状地に一気に放たれます。

その洪水被害を軽減するために考えられたのが、雁堤(かりがねづつみ)と呼ばれる壮大な河川改修計画です。現在残っている形跡を赤い線で表しました。
これは、1674年から50年あまりをかけて富士川の水が東側にあふれ出ないように、先人達が構築した堤防跡です。雁が群れて飛ぶ形に似ている事から、雁堤と呼ばれるようになったと言われています。

これは、東から見たGooglemapに、雁堤(かりがねづつみ)で囲まれた部分を水色にしたものです。川の水をこの水色部分で受け止めようとしたわけですね。この工事では、写真のこんもりとした森になっている水神社の地下に巨大な岩盤があり、これを堤防の基礎としました。

この水神社が雁堤(かりがねづつみ)南端にあたり、東海道の富士川の渡しは、主にここから発着していました。分かりやすくするために東海道をオレンジ色で入れてみました。
雁堤(かりがねづつみ)の完成後、水害のなくなった左岸、写真手前の加島平野では新田開発が進み、その様相は「加島五千石」と讃えられるまでになりました。
しかし、これまで被害の無かった右岸の岩淵や中之郷・蒲原の地は洪水の被害が頻発するようになってしまいました。結局富士川は、近代になって堤防や取水計画で洪水を抑えるまで、ずっと暴れ川だったということですね。

また、伝承によると、雁堤の工事があまりにうまく進まなかったため、人柱(生贄)を使って工事を推し進めたようです。実際に、雁堤の東端にある護所神社には、それを裏付けるように人柱供養の石塔が建てられています。にわかには信じがたい、江戸時代の公共事業の裏側ですね。また、その犠牲の下に東海道が存在していたことになります。

さて、広重の画を詳しく見ていきましょう。
家並みの続く坂道を、傘をすぼめて下りていく住人がひとり、簔傘姿で坂を登っていく旅人が二人、雪が小降りになったのを見計らって、動き始めたかのようですね。その背後には山が二重になって描かれ、連なっている家々の屋根には雪が降り積もり、静かな夜の景色を描いています。ほぼモノトーンの全体からひっそりと静まりかえった、音のない空間を感じてしまいます。シリーズの中で、圧巻の傑作と言われています。

実は私が初摺りと思って今回採りあげたものが、版のつぶれ具合から後摺りだったかもしれません。最初、後刷りと思っていたボストン美術館の画もご覧ください。さて、いかがでしょう?

変わり図は後ろの背景のグラデーションが逆になり、より、夜の暗さと雪の白さが強調されています。私は個人的に、こちらの方がお気に入りですね。

隷書版は、富士山を見ながらのんびりと船旅を楽しむ旅人を岩渕側から描いています。

行書版は岩渕側の少し高台から富士川越しに、富士山を眺めている二人の虚無僧を描いています。

狂歌入りは渡しを下りて、岩渕の急坂を登ったあたりから、振り返って富士山を見ています。

北斎は、蒲原の砂浜で行われていた地引き網の漁師達を描いています。実は、蒲原の浜辺は、三保の松原と並び称されるほどの、富士山の絶景スポットで、吹上の浜と呼ばれていました。

これはその現在の吹上浜の先の堤防あたりから、富士山と愛鷹山を見た景色です。この日は残念ながら、肝心の頭の部分が雲に隠れていますが、江戸の頃は、ほぼ護岸整備されていない富士川越しに見る富士は、さぞ絶景だったと思われます。

さて、この画は実際にどこを描いたのか、現在でも全くわかっていません。さらに温暖な土地を雪景色で描いていて、専門家の間でも様々な意見が出されている画でもあります。ただ言えることは、背後に山が見えていて、山道のような急な坂道を下って家並みに入って行くような場所ということです。

これは、蒲原宿を海側から見たApplemapストリートビューです。これに、東海道をオレンジ色で描き入れました。山側から下りてきた東海道はどんどん坂が緩くなり、宿内はほぼ平地ですので、廣重の描いた条件に合致する場所としては、この赤い点線内あたりしか見当たりません。

その中の一番可能性のありそうなところがここ、蒲原宿手前の光蓮寺あたりの坂です。しかしここには左側に迫り上がる山がありません。

あるいは、もう少し下がっていったこの場所が二番目の候補なのですが、やはり左側に山がなく、右の山も高さがありません。

蒲原宿に入ってしまうと、山はほぼ見えなくなります。また、急坂がありませんので、候補にはなりませんね。

富士川の川止めの時などは大変な賑わいを見せていた蒲原宿は、今でも江戸時代の本陣跡や旅籠跡など情緒ある町並みを見ることができます。蒲原宿の画は、広重のこのシリーズの最高傑作と評価されているので、もう描いた場所なんかどうでもいいのかもしれませんね。

ここは、江戸からやって来た旅人が、天変地異などにさんざん翻弄されてきた街道を大きく遠回りして辿り着いた蒲原宿です。晴れてようが雪が降ってようが、ほっと一息つく宿場だったのだと思いたいですね。もしかしたら、吹上浜からの絶景より、ありがたかったかもしれません。

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