18 興津 興津川

日本語版

これは薩埵峠を下りて、すぐのところにある興津川の徒渡しを描いています。

由井宿から興津宿までの、本陣同士の間隔は約9.2キロの道のりですが、薩埵峠を越えれば、興津宿はもうすぐそこでした。

東海道は、薩埵峠を下りてくると大きく山側に迂回して、海に向かいます。
今のJRの線路あたりで興津川を渡るようになっていました。この興津川には、冬場には仮の橋が架かっていましたが、暖かい時期は徒渡しとなっていました。

東海道は興津川を渡ると一号線と合流し、興津中町西の信号で、右に身延道と別れます。身延道は興津川を遡り、富士川に沿って、身延山、久遠寺の麓を経由して、甲府方面に行くことができました。

その先、興津一里塚を越え、JR興津駅も越えると東本陣と西本陣があり、興津宿の中心となります。

しかし、興津と言えば、なんと言ってもその先に少し行った清見寺が有名でした。

七世紀後半の天武天皇の頃に東北の蝦夷に備えて、この地に関所が設けられ、清見関(きよみがせき)と呼ばれていました。その関の鎮護と管理のためにお寺が作られ、それが清見寺でした。目の前には和歌や画の題材にもなった景勝地、清見潟(きよみがた)があり、戦国時代には難攻不落の要塞としての役割も果たしました。

江戸時代の絵図をご覧ください。戦国時代に徳川家康が竹千代と名乗っていた頃、今川氏の人質として駿府にいて、ここ清見寺住職から教育を受けていました。
江戸時代になってからは、家康の三女から仏殿や山門などの寄進も受けていました。そんな関係で、清見寺は三葉葵の紋の使用を許され江戸時代260年の間、二百石以上の領有地を持っていて、徳川一門の帰依を篤く受けていました。

そんな歴史をもつ名刹なのですが、実際に行ってみると驚く光景に出会えます。総門と本堂の間をJRの東海道線が走っている姿です。

空撮の方が分かりやすいのでご覧ください。初期の鉄道施設技術では、当時新橋から品川までは、全く海だった場所に線路を引いていました。そんな技術も持っていながら、ここではわざわざ清見寺の境内を横切らせています。薩長連合の明治新政府による、江戸幕府関係者に対するいじめですね。
もともと明治維新後、清見寺周辺の広大な領有地も、ほぼ新政府に取り上げられていました。今ではその清見寺の裏山に、東名高速と新幹線のトンネルまで通っています。

広重の描いた興津川を詳しく見ていきましょう。
徒歩きで、大きな力士を二人運んでいる画が描かれています。実は力士達は、徒歩きの渡しを自分の足で歩いて渡ることを許されていました。しかし、描かれた力士たちは、それを嫌って人足に頼んだようで、「四ツ天」と呼ばれる、四人で担ぐ駕籠で運ばれています。人足も力士と分かっているからか、それぞれにとても大変そうな顔をしています。力士と荷物の両方を乗せた乗掛馬の馬子も、心配そうに馬を見つめています。力士は刀を抱えているところを見ると、大名のお抱え力士ですね。

薩埵峠に繋がる山の岩がかなりゴツゴツしているのが分かりますね。
奥の松林は、「許奴美の浜(こぬみのはま)」と呼ばれる万葉集にも出てくる景勝地です。恋人に「この浜で待ってますから、難所の薩埵峠を越えてきてください」と詠んだ浜です。その先、舟の白帆だけが見えている海は駿河湾です。
江戸時代、興津川は平常時、水深40センチぐらいが平均だったので、この画の通りですね。しかし、90cmを越えると馬での渡しが中止となり、130cmを越えると人の渡しも中止になっていました。

また、どうして相撲の力士がここに描かれているのかを調べて見ると、当時、清見潟という四股名の力士が実際にいて、この当時で既に五代目を数えていたようです。初代が清見潟又造で、現在でも日本相撲協会では年寄名跡として記録に残っています。ただし、初代が三河幡豆の出身で、その由来が興津に関係するのかは分かっていません。ただ、初代清見潟親方は、三河地方の相撲興行に尽力されたようで、参勤交代に伴って東海道を通って、三河方面に興業にいったことはあるようです。

私が初摺りだと思って採用したものより、全体に少し明るい後摺りががあります。ひょっとしたらこちらが初摺りかもしれません。判断がむずかしいので一緒にご覧ください。

隷書版は、駿河湾から帆船越しに清見寺と富士山を見ています。当時は清見寺がいかに有名なお寺さんだったかが分かりますねえ。

行書版は、清見寺の前あたりから清水湊や三保の松原方面を見ています。ここでも副題が「清見の関」になっていますので、世間の清見寺への見方が分かりますね。

狂歌入りは、興津川の徒渡しを描いています。後ろの山は薩埵峠ですね。興津川の流量があまりないことがよく分かりますねえ。

北斎の興津は、名物を描いています。鮑と栄螺と甘鯛、ちょっとそそられますねえ。

実際にここに行ってきました。
このあたりが東海道、興津川の徒渡し現場だと思われます。

Googlemapストリートビューで少し上から見てみました。鉄道線路と国道一号線の中間あたりが徒渡し現場です。こうして見ると、鉄道と国道一号線以外は、江戸末期とあまり変わらないのかもしれませんね。

奥の「許奴美の浜(こぬみのはま)」には今、住宅などが建ち並んでいます。

大正8年に発行された写真集を見ると海岸沿いにも結構な民家が建っていますね。安政の大地震で、かなり海岸線が隆起したのが分かりますね。うっすらとですが、富士山も見えています。

現在、興津川上流の遊歩道はきれいな桜の名所になっています。

興津川の上空から、西を見た写真です。東海道をオレンジ色で被せてみました。明治から大正にかけての興津は、当時の特権階級である政治家達の人気の別荘地でした。それは、景勝地の清見潟が目の前にあったからといわれています。

しかし、それが1962年に興津埠頭の工事が始り、古くからの名所清見潟(きよみがた)も埋め立てられてしまいました。埋め立て部分を青くしてみました。興津を、巨大な港湾都市に改造しようとしてことが分かりますね。直ぐ目の前が海だった清見寺が、随分と海から離れてしまいました。当時の波打ち際である赤い位置から見た現在の写真がこれです。

明治22年(1889年)に鉄道線路に寺領を分断された清見寺は、公式には興津発展のために喜んで土地を献納したとされています。真偽はとにかく、清見寺の大人の対応には、拍手を送りたいですね。

このあたりの名産である、清見オレンジの名称は、清見寺や清見潟が由来だといわれています。
さあ、左の先にはその徳川家康のお墓がある、久能山が見えてきました。次の宿、江尻は清水ですから、すぐそこですね。

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