この画は、小夜の中山を過ぎてから日坂宿に至る手前にある、夜泣石を描いたものです。
金谷宿から日坂宿までは、約7.1kmですが、広重が画にした夜泣石があった場所は、日坂宿の1kmほど手前にありました。
金谷宿を出た東海道は、JR東海道線をくぐって駅裏を進んでいくと金谷坂の石畳になります。ここから日坂宿までは、東海道は急坂を登っては降りるという道を通過していきます。
江戸時代、金谷坂は急坂なうえに「あおねば」と呼ばれる粘土層が露出しており、雨が降るとぬかるみで旅人は大変苦労しました。そこで江戸時代後半、約720mにわたり、石を敷き詰めて、歩きやすい石畳が作られました。
この石畳は、菊川側にも作られていました。こちらは下り坂になりますが、ある程度復元されて今も見ることができます。
その先、菊川宿は間の宿としても機能しており、そこを過ぎると小夜の中山とよばれる、山道を登っていくことになります。登った先は今、茶畑になっています。
見晴らしのいい茶畑を進んでいくと右側に久延寺(きゅうえんじ)が見えてきます。
ここは、広重が画にした夜泣石に深く関わるお寺で、今は、境内に石らしきものもあります。
久延寺(きゅうえんじ)から緩やかに1.5kmほど下って行くと、広重が画にした夜泣石があった場所になります。しかし、今は石は無く、道の傍らに碑と説明板だけが立っています。
さてここで、歌川国芳が描いた浮世絵を見ながら、滝沢馬琴が書いた、この夜泣き石の伝説を紹介します。
その昔、小夜の中山に住む「お石」という女が菊川の里へ働きに行った帰り、中山の丸石の松の根元で急に陣痛が始まり、苦しんでいました。そこへ轟業右衛門という旅人が通りかかり、お石がお金を持っていることを知り、切り殺して金を奪いました。
お石に斬りかかったときに、刀の先が丸石にあたり、刃こぼれをしてしまいます。一方、斬られたお石の傷口からは、子どもが生まれました。お石はその場で死んでしまいましたが、お石の魂はその丸石に乗りうつり、その後もずっと泣き続けていました。
その泣き声を聞きつけ、駆けつけた久延寺の住職が、子どもを助け上げ母乳の代わりに水飴を与えました。その後音八と名付けられた子どもは、すくすく育ち、やがて成人して大和国の研ぎ師に弟子入りします。
ある日、先が刃こぼれしている刀を持った武士が、刃研ぎの依頼にやって来ました。その武士こそが母の仇、轟業右衛門だと知ります。めでたく本懐を遂げたこの話を、後日、弘法大師空海が聞いて、お石に同情し、石に仏号を刻み読経して立ち去りました。そのときから、それまでずっと泣きつづけていた丸石の夜泣きは、ぴたりと止んだと言われています。
その後、この小夜の中山あたりでは、水飴が「子育て飴」として名物となり、売られていました。今でも久延寺の門前にある扇屋さんで、それが売られています。
もう一軒「子育て飴」が売られているは、中山新道と呼ばれた旧国道一号線、小夜の中山トンネル手前の小泉屋さんです。この小泉屋さんの裏手を上っていくと、今でも東海道にあった夜泣き石が置かれています。
この「夜泣き石」は、明治元年になり、明治天皇が通るのに邪魔だということで、道の脇に寄せられました。しかし、1881年(明治14年)に、この「夜泣き石」を東京で見せ物にする興行があり、それが失敗に終わり、帰途途中で資金不足となり、焼津に捨て置かれたままになっていました。このままではかわいそう、ということでこの小泉屋さんと地元有志がこの場所に運びました。近づいてみてみると、文字らしいものが刻んであるのが分かります。
この石の左側には、「奉納銀座松坂屋」と刻まれた灯籠が立っています。これは、1936年(昭和11年)に開催された、銀座の松坂屋で開かれた物産展で、今度はこの「夜泣き石」が大盛況だったことから、松坂屋が奉納したようです。
さて、廣重の画を詳しく見ていきましょう。
この石は、当時でも相当知れ渡っている石だったと見えて、旅人たちは、みんな足を止めて見ています。石の横には、なにやら文字が描かれていますが、弘法大師空海が彫り込んだ文字だと言われています。奥の坂道には、空の駕籠を担いで帰っていく駕籠舁きが二人、峠方面を手をかざしながら、登っていきます。その奥からは、峠から今、下りてくる道中合羽の侍風の旅人がいます。
石の左にはいかにも旅人らしい、道中合羽に菅笠と脚絆の二人連れ、一人は石を見ていますが、奥の一人は煙管を咥えながら奥の山を見ています。奥のその青い山は、無間山ではないかと言われています。石の右にはほおかむりと鉢巻の旅人が、石を興味深そうに見ています。その奥の半合羽に三度笠に杖を持った旅人は、わざわざ振り返って石を見ていますねえ。
隷書版は、同じ夜泣き石を見晴らしのいいところとして、無間山と一緒に描いています。当時は、松や杉にかこまれた、こんな見晴らしのいい場所だったのでしょうか。右の江戸から来る旅人が、これだこれだ、と囃子ながら歩いてくるのがおもしろいですねえ。
行書版も同じ夜泣き石を、副題で無間山遠望と名付けています。左の菅笠の二人の会話が今にも聞こえてきそうですね。右奥に見える灰色の山が無間山ですね。
狂歌入りは、日坂宿に下りていく急坂を描いています。大きく曲がりくねった坂が、実際の状態をよく捉えていますね。
実際にこの場所に行ってきました。廣重が、坂を随分急坂として描いていることがわかりますねえ。今は、左側の樹木が育っていて、無間山は見渡せません。
この写真に丸石を置いてみました。当時はアスファルトの道ではありませんが、この道の真ん中にあったようです。
少し日坂宿側に進むと、茶畑の向こうに無間山が見えてきます。赤い鉄塔の後ろに、みえている山で、これは今、粟ヶ岳と呼ばれています。
北側を見たGoogleストリートビューもご覧ください。オレンジ色で、東海道も描き入れました。
写真奥の山肌に「茶」の文字が浮かびあがっている山が粟ヶ岳です。隷書版や、行書版でも採りあげられていたこの山は、夜泣き石から4km弱ほど北側にあり、当時は、夜泣き石とともに遠州七不思議の一つに数えられる「無間の鐘」で有名でした。
無間山の山頂の観音寺にある鐘をつけば、現世で無量の宝を得られるいわれていました。しかし、来世は無間地獄に落ちるともいわれていました。
その噂は村人はもとより日本各地へも広がり、これを聞いた多くの人々が我先にと鐘を撞きに押し寄せました。それを見た観音寺の住職は、今が良ければ来世のことはどうでもいいという、人々の目を覚まさせるために鐘を寺の前の古井戸に投げ込み、埋めてしまいました。廣重は、このシリーズでなかなか奥深く、示唆に富んでいる画を提供していたのですねえ。
この先のGoogleストリートビューもご覧ください。明治時代の鉄道線施設計画では、金谷から小夜の中山を抜けるのは技術的に不可能ということで、金谷から今の菊川市を通り、掛川まで繋げました。そのため、日坂宿は時代から忘れられた、静かな山間の街となりました。
夜泣き石を越えると東海道は、とても狭い急坂の山道をくねくねと下りながら、大きく右に迂回し、静かな日坂宿を抜け、西に向かって掛川宿に向かいます。



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