この画は、掛川宿を過ぎてから秋葉路(あきはみち)との追分手前にかかる二瀬川橋周辺を描いたものです。
日坂宿から掛川宿までは約7.1kmで、そこから先にさらに2kmほど進むと、秋葉路(あきはみち)との追分がある、二瀬川橋に行くことができました。
日坂宿を出た東海道は、直ぐ左にある事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)あたりでちょっと大通りになります。この神社は、「ことのまま」の名が「願い事が意のままに叶う」の意味を持つことから、多く旅人が、旅の安全や願い事成就を祈るため立ち寄り、賑わっていました。ここをさらに南下すると国道一号線掛川バイパスを横切り、伊達方一里塚に達します。
さらに進んでいくと、本村橋(ほんむらばし)あたりで、左にそれ、細道に入って行きます。
そのまま西に行って逆川を渡ると、そこは、葛川の一里塚でした。
さらに行くと、今の新町あたりで左に曲がり、この先は城下町らしく曲がりくねったクランク道を行きます。その途中に東番所があり、そこは実質的な掛川宿の東の端でした。
掛川宿本陣を過ぎると、中町あたりで右を見ると掛川城が見えています。
東海道は十九首塚(じゅうくしょづか)がある右の小道を斜めに入り、二瀬川橋に向かいます。
十九首塚(じゅうくしょづか)とは、940年(天慶3年)、藤原秀郷が平将門一門19名を討伐してその首を弔った塚だといわれています。今でも地元の守り神として、大切にされています。
逆川を渡り、二瀬川の信号を左に折れると、大池橋になります。江戸時代の二瀬川橋は、今の大池橋の少し上流に架かっていて、橋を渡ると左が東海道、右が秋葉路の追分になっていました。
ここで、国土地理院の地図に、当時の街道を分かりやすく示した「れきちず」を被せてみます。掛川宿は当時、秋葉神社(あきはじんじゃ)への参詣者で大変賑わっていたとされています。それは、江戸から東海道を来ると、最初の秋葉路が掛川から始まっていたからです。
分かりやすく地図に色づけした青い道が、各地から秋葉神社に向かう道で、秋葉路(あきはみち)とも呼ばれていました。信仰の証や道標として秋葉路(あきはみち)には、あちこちに数多くの常夜灯が建てられていました。遠州に位置する東海道から北に向かう道は、ほとんどが秋葉神社(あきはじんじゃ)へ通じていると言われるくらいに幾筋もの秋葉路(あきはみち)が存在していました。
掛川宿からは、天竜浜名湖鉄道に沿って、森を通り、気田川を渡り、犬居城(いぬいじょう)から上るコースが、秋葉山(あきはさん)に向かう道でした。
秋葉大権現とも呼ばれた秋葉神社(あきはじんじゃ)は、高い山の上にあるにも拘わらず、江戸幕府五代将軍、徳川綱吉の頃から、「火防(ひぶせ)の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになりました。東海道を旅していると、今でも至るところに秋葉講(あきはこう)の信者が立てた灯籠などを見ることができます。いかに信仰者が多かったか分かりますね。
特に火事の多い江戸には数多くの秋葉講(あきはこう)が結成され、その参詣者の数は伊勢参りにも匹敵するものだったようです。この絵は、1837年(天保3年)頃に廣重が描いた秋葉山参詣風景です。
江戸時代には、この秋葉神社あるいは伊勢参り、大山詣など、その現地までお参りに行く旅が、大人気でした。この写真は、秋葉神社(あきはじんじゃ)から東海道掛川方面を見た写真です。江戸の庶民たちはこんな景色を見ることを楽しみにしていたようですね。特に廣重の描いたこの東海道五十三次が出版された頃には、旅情を誘う浮世絵とともに、旅が一大ブームとして盛り上がっていた頃でした。
広重の画を詳しく見ていきましょう。
画の一番手前には秋葉神社(あきはじんじゃ)の常夜灯が二基描かれ、その先に二瀬川橋を渡る人々が描かれています。左からは、秋葉神社(あきはじんじゃ)でのお参りを終えたのか、供を連れた僧侶が渡ってきます。手にはなにやら文字の書かれた扇子と杖を持っています。すれ違う老夫婦は、その僧侶に敬意を払い、深くお辞儀をしているのに、その後ろの子どもは、無頓着をきめています。空には遠州凧が揚がっていて、画面から飛び出しています。もうひとつの凧は糸が切れて山の方に飛んで行っています。
この橋は木橋の上に土を被せた土橋で、その上を遅れて渡る子どもは、手をかざして、飛んで行った凧を見ています。橋の向こうには、田植えをしている人々がたくさん描かれ、その先右奥に描かれた、ゴツゴツした山が秋葉山(あきはさん)です。全体にのどかな感じの春の景色になっています。
廣重は、隷書版で、この先の光景を描いています。橋を渡った先には二本の松と石灯籠、それに立派な鳥居がありました。武家風の二人が指さしながら歩いているのが、秋葉路(あきはみち)です。
行書版では、この鳥居を正面から描いています。横の道が東海道で、正面鳥居の先から、旅人が上ってくる道が秋葉路(あきはみち)です。庶民の秋葉山(あきはさん)信仰の篤さがわかりますねえ。
狂歌入り版では、これらをひっくるめた全部を、二瀬川橋の手前からの視点で描いています。この画で何となく位置関係がわかってきますね。
大正7年に発行された本には、ほぼ広重の視点から撮れている写真が載っています。木製の橋の向こうには、一の鳥居も見えています。この当時は、鳥居は、ほぼ橋の方向を向いていたようですね。
実際にここに行ってきました。この橋は、大池橋で広重の視点から見た現在の状況がこれです。江戸時代の二瀬川橋は、この右側にかかっており、今では鳥居や灯籠は見えません。
今の大池橋を二瀬橋に見立てて、広重の画の構図に合わせると、こんな景色になるのでしょうか。
これが江戸時代の追分から見た、現在の秋葉路(あきはみち)です。行書版と同じ構図ですね。現在の道路付けでは大池橋を渡り、右折します。
秋葉路(あきはみち)の横には、現在もこんな遙拝所が残されています。
これが、東海道で、現在の道路付けでは大池橋を渡り、左折します。
Googleストリートビューで見てみます。当時三差路だった道は、今では五差路になっています。今でも秋葉路に入ったところには、「秋葉神社(あきはじんじゃ)掛川一の鳥居遥斎所」というのが残されています。遠くに秋葉山(あきはさん)も小さく見えていますが、廣重がかなり強調して描いていたことが分かりますね。
最後に広重の視点上空から袋井宿方面を見たものに、東海道を描き入れてみます。
現在、この地域の住所は「大池」ですが、北には秋葉通公会堂、東海道側には鳥居町公会堂などもあります。今は、遙拝所だけになってしまいましたが、この地域が昔から秋葉神社(あきはじんじゃ)と、その信仰に密接に関わっていたことが分かりますね。
東海道は、大池橋を渡り左折すると、西掛川駅で大きく右に曲がり、その先の西にある袋井宿が見えてきています。



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