31 舞坂 今切真景

日本語版

これは浜名湖の湖上を行く渡船、今切(いまぎれ)の渡しの舞坂側を、海から見た風景です。

濵松宿から、舞坂宿までは、約11kmほどのほぼ平地を歩く行程になります。

東海道は、濵松宿を出て、西に向かう途中からJRの線路とほぼ並行に進んでいきます。高塚駅付近には、当時、高札と灯籠がありました。

舞阪駅が近くなると、右手に秋葉神社の龍燈を見ることができます。これは、秋葉山詣の旅人のために設えられた常夜灯です。

舞阪駅あたりからは、両脇に松並木が見えてきます。舞坂宿はこのあたりから始まり、今でもたくさんの松の木を見ることができます。

ここから舞坂宿、荒井宿と浜名湖を見られる広域地図をご覧ください。
東海道は、濱松を過ぎて、舞坂宿から荒井宿までは船渡しになります。しかし、広重がこの地を描く頃まで、幾たびかの天災に見舞われていました。

1490年以前の絵図によると舞坂と荒井はほぼ陸続きで、浜名湖から流れ出す小さな川を渡るだけでした。この地図の黄緑色の部分も全部陸地でした。
しかし、1498年に起こった明応地震で遠州灘沿岸は、大規模な地盤沈下と津波に襲われました。地震により浜名湖の開口部が沈下し、それに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた砂洲が決壊し、海からかなりはなれていたはずの浜名湖は、海水混じりの汽水湖となりました。

これはその様子を描いた地図で、水色の大きな浜名湖ができていました。
ここから、舞坂から荒井まで、今切(いまぎれ)の船渡しが始まるのですが、その後も1510年には舞坂の海が大きく陥没したり、1699年には高潮被害により舞坂宿の対岸にある荒井関所が大破したりで、災難が続きます。
1707年には、宝永地震と津波のため舞坂宿も大きな被害を受け、対岸の荒井宿でも家屋855軒が浸水、倒壊し、渡船も大きな被害を受けてしまいます。この津波被害と、浜名湖開口部の整備、そして荒井関所そのものの移転によって、舞坂宿と荒井宿を結ぶ航路であった今切の渡しが延長され、約1里、3.9kmの航路となりました。

また、荒井宿にある関所は「入り鉄砲と出女」と揶揄されるほど、取り締まりの厳しい関所でした。遠回りで長い船旅と検問の厳しい関所を併せ持つ、「今切渡船(いまぎれとせん)」がここに誕生しました。ただし、旅人は東海道を嫌って、こぞって浜名湖の北を通る姫街道に集中しました。地図の緑色の線です。また、「いまぎれ」の読み方が、縁を切ることにもつながり、女性達にはとても不人気で、さらに幕府も災害の多い東海道より、姫街道を推奨していた時期もありました。

宝永地震から1年以上経過した後も、東海道には利用者がもどらず、復興もままならない危機感から、1709年3月に舞阪宿を始め、濵松・荒井・白須賀・二川・吉田の6宿から、公的旅行では東海道を利用するよう、幕府に嘆願書が出されました。
それから8年後の1717年11月になってやっと、幕府道中奉行から姫街道の通行差留指令が出されました。しかし、そんな幕府からの強いお達しにもかかわらず、一般の旅人達はなかなか東海道筋には戻りませんでした。

ここで、広重の視点を赤いグラデーションで入れてみます。これを参考に広重の画を詳しく見ていきましょう。

画の左手前にある木の杭は、宝永地震の時から打ち込まれた波除けの杭です。右の小松は護岸のために植えられたもので、沿岸にはかなりの数の松が植えられていました。どちらも遠州灘の波風から渡し船などの影響をやわらげるためのものです。
画面中央には、大きな山が描かれていますが、実際にこれは存在しません。

廣重がこのシリーズを描く際に参考にした「東海道名所図會」の「今切」を描いたものがこれです。研究者の見立てによると、ここに描かれたままの山を廣重が流用、誇張したのではないかと言われています。

入江の浅瀬には、5艘の小舟が蛤を採る姿を描いていて、右入江の奥には雪をかぶった富士山が描かれています。山の左は浜名湖浜名湖が奥の方まで続いています。しかし、手前は海ですから、小松の植わった岸辺が右から緩やかに下りてくるというのは、地形上考えられません。

ここで、隷書版をご覧ください。舞坂の雁木と呼ばれる階段状の船着き場で荷物の積み下ろしや、乗船を待っている旅人を描いています。今切の船渡しは干潮満潮によって、一時激しい流れにはなるものの、それ以外は内海のゆっくりした船旅だったようです。

行書版は、もう少し大きな船での荷物の積み下ろしを描いています。とてものどかな感じがしますね。ただし、右の山の後ろにある、さらに高い山も存在しません。

狂歌入りは、帆を大きく張った二艘の舟が港に入ってきています。背景には、とても高い山々が描かれていますが、やはりこの山も実際にはありませんでした。

今回は、竪画版もご覧ください。
保永堂版からこの竪画版まで21年近く出版間隔がありましたが、この画にもやはり、存在しない高い山々が描かれています。廣重は、この画を出版した3年後に亡くなっています。おそらく廣重は、この舞坂や今切(いまぎれ)を訪れてはおらず、実際の景色を見ていなかったのかもしれませんねえ。

実際にここに行ってきました。しかし、手前に岸辺があり、左に山があり、右奥に富士山が見える場所は、実際には存在しませんので、東から来た東海道が海に突き当たる場所越しに、富士山方向を見た写真をカメラに収めたのが、これです。

これはもう少し岸に寄り、東海道が海に下りる場所です。
舞坂宿には海に下りる階段状の構造物である「雁木」を持つ渡船場が三つがありました。「北雁木」が大名用、「中雁木」が武家用、「南雁木」が庶民用や荷物の積みおろしに使用されていました。舞坂では「雁木」を「がんげ」呼んでいました。
写真は、もっとも多くの旅人が目にしたであろう、中雁木渡船場跡に立つの常夜灯です。その向かいには、西町の常夜灯、少し先には本陣跡があります。

広重の描いた方向に倣ってほぼ同じ方角で、Googleストリートビューで視点を上げてみました。右側に小さく富士山は見えますが、どうも構図的に広重の描いた画とは違いすぎますねえ。

かなり視点を上げて東海道も描き入れ、写真にした中雁木常夜灯の位置なども入れてみました。しかし、廣重の画ようには見えませんね。

画の副題は、「今切真景」でしたが、「真景」ではなかったということですね。東海道をここまで歩いてきた旅人達も、もし、廣重の画を携えていたら、「これ、違うよねえ」などと呟いていたかもしれません。

東海道のこの先をGoogleストリートビューで見てみます。東海道をオレンジで、今切の渡しをピンクにしてみました。
この景色が、わずか520年ほど前は、全く違っていたというのは、にわかに信じられませんねえ。日本は、やはり天災の多い国なんですね。
東海道は、船で荒井宿に向かいます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました