これは、間もなく荒井宿に到着する今切(いまぎれ)をゆく、渡し船を描いています。
まずは、これがどこなのかを舞坂宿も含めた現在の地図でご確認ください。
東海道を舞坂まで来ると、そこから荒井宿までは、約3.9キロの船旅でした。東海道は紺色、今切渡船の航路は破線で表しています。
現在は、埋め立て整備も鉄道線路施設も進み、電車や車で通ると地続きのように感じますが、当時は海の上だったわけですね。
少し拡大した明治後期の国土地理院の地図を見ると海岸線は随分今と違っていて、江戸の頃の航路はこの赤い破線のあたりを辿っていたのではないかと思われます。
これに現在の地図を被せてみます。
ここから推測できる広重の視点はここだろう、という地点を赤いグラデーションでご確認ください。
もう少しわかりやすい現在のApplemapを加工して、1490年以前の状態を再現してみます。
1490年以前のこのあたりの絵図によると舞坂と荒井はほぼ陸続きで、浜名湖から流れ出す小さな川を渡るだけでした。驚くことに、この地図の黄緑色の部分が全部陸地でした。その頃は、今では消滅してしまった橋本宿というのが、この小さな川の畔で繁盛していました。
しかし、1498年に明応地震が遠州灘沿岸全体を襲いました。浜名湖の開口部が沈下し、それに伴う津波により浜名湖と海を隔てていた砂洲が決壊してしまいました。主に天竜川の堆砂でできていたこの地域は、特にもろかったようで、海からかなりはなれていたはずの浜名湖は海水が混じり、大きな汽水湖となりました。繁栄していた橋本宿は、荒井宿と、当時「前沢」と呼ばれていた舞坂宿とに別れました。
その大まかな状態が、この地図です。しかし、その後も1510年には舞坂側の海が大きく陥没したり、江戸幕府が開かれてからの1699年には高潮被害により、最初の荒井関所が大破しています。
1707年には、宝永地震と津波のため荒井宿で家屋855軒が浸水、倒壊し、渡船機能も大きな被害を受けてしまいます。荒井関所は西に移転し、廣重が画にした3.9kmの長い今切の渡しとなりました。しかし、実際にはその航路も、たびたび堆砂で航行不能な浅瀬ができしまい、その渡船路維持のために苦労していました。
また、広重がこの画を描いた天保の頃の記録では、船賃は、人一人18文、荷物一駄53文となっていました。現在の職人価格換算では一文を50円として、一人約900円ですね。広重の視点に赤いグラデーションを入れてみました。
ここで、東海道と姫街道の関係が分かる地図をご覧ください。
徳川家康が江戸幕府を開いてから、西国に対する備えは最重要課題でした。軍備では駿府城と清水湊を整備し、陸上警備ではこの荒井宿の関所が最前線でした。
「入り鉄砲と出女」とは、江戸に持ち込まれる鉄炮と、江戸屋敷に人質として置かれた大名の家族がこっそり脱出するのを防ぐため、関所で取り締まる機能強化を揶揄した言葉です。
荒井の関所はこの機能が特に厳しく、一目置かれる関所でした。渡船は使うし、関所は厳しいし、という理由で、東西交通の難所といわれていました。また、この「今切(いまぎれ)」と言う言葉が離縁に繋がるとして、女性には特に不人気でした。
幕府も天災の多い、東海道より浜名湖の北を抜ける姫街道を推奨していた時期もあり、旅人は東海道を嫌って、姫街道に集中していました。地図の緑色の線です。
1707年の宝永地震の後も、東海道に利用者はもどらず復興もままならないことから、姫街道でバイパスされてしまう東海道の6宿からは、公的旅行では東海道を利用するよう嘆願書が出され、9年後にやっと姫街道の通行が差留となりました。しかし現実は、幕府道中奉行の指令にもかかわらず、旅人がなかなか東海道筋に戻りませんでした。
それどころか、1853年には13代将軍徳川家定の正室、篤姫が、鹿児島からのお輿入れのためにここを通ったことから、それまで「本坂通」と呼ばれていた街道が「姫街道」として一躍有名になりました。1854年11月の安政地震では荒井と舞坂が津波に襲われ、荒井は関所が大破し、付近の家屋10軒全壊、31軒が破損、死者14人を出す惨事となり、東海道も一時通行不能になってしまいます。
広重は、そんな人気のなかった荒井関所を右の遠景に置き、二艘の船を描いています。
先に行く船は、大名専用の御座船で、毛槍や吹き流しなどが風にたなびいています。手前左の船は、家来を乗せた船で、前をゆく御座舟に気を遣いながら、追い越さないようにゆっくりゆっくり進んでいます。その船の中では、やることのない中間たちが大あくびをしながら、腕を空に伸ばしているのが、面白いですね。長い船旅に飽きちゃったのでしょうねえ。
隷書版を見ると、当時は関所の前まで船が横付けできるようになっていたことがわかります。富士山の右側が舞坂宿ですが、こんなに遠くはありませんでした。
行書版は、海から荒井の関方面を見ています。これは荷物運搬用の舟が、続々と関所を目指して進んでいます。
狂歌入りもやはり、大名や、侍、家来達だけが描かれています。関所を覗き込む町人らしき人がおもしろいですねえ。
ちょっと色使いの違う後摺りをご覧ください。この後摺りは、中間たちの着物や御座船の幕と吹き流しが紫色から茶色になっています。特に関所がかなり薄く描かれています。当時の荒井の関を通る東海道は、大名など、幕府に逆らう姿勢を見せたくない、一部の人たちが仕方なく使っている道でした。広重は、このことをよく知っていて、描かれている人物は、大名関係の人たちだけで構成し、荒井宿をちょっと揶揄したような画として、描いたようです。
見比べるとやっぱり、初摺りの方が迫力がありますね。
荒井関所は江戸末期にはほぼ機能しなくなっていて、検問機能が削がれてしまっていたようです。幕末には関所の監視が緩んだことで、志士たちが自由に往来し、各藩の同志との連絡や情報交換を円滑に行うことができていました。また、武器や軍事物資、活動資金などの輸送も比較的容易になっていました。この関所の弱体化が薩長連合につけいるすきを見せ、維新に繋がった一つだったのかもしれません。
実際にここに行ってきました。
このあたりがだいたいの広重の視点ではないかと思われます。この先、今は埋め立てられて、道路になっていますが、関所のすぐ前まで海が続いていて、その船着きがから直接関所に上陸していたようです。
これが現在、再現された荒井関所です。
1854年の安政地震の1年後に、関所建物が改築され、明治になってからは小学校や役所としてとして使用されていました。1955年には「新居関跡」(あらいのせきあと)として特別史跡の指定を受けています。
大正七年に発行された写真集には、ほぼ同じアングルであろう写真が残されていました。大正の頃までは、まだこんな景色が残っていたのですね。
Googleストリートビューで、広重の視点の先を見てみました。東海道をオレンジ色に、渡船部分を赤にして、入れてみました。関所の直ぐ手前まで、海が入り込んでいたのですね。
東海道はこの先左に遠州灘、その先に渥美半島を見ながら、白須賀宿に向かいます。



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