これは、猿ヶ馬場(さるがばんば)という高台にあった、名物の柏餅を売る茶店を描いたものです。
白須賀宿から二川宿までは約5.7kmですが、江戸時代でも道中にはほぼ何もない道だったようです。
白須賀宿を出て、少し行くと境川という小さな川を渡ります。この川が国境となっていて、ここで遠江国から三河国に入ります。ここは今でも静岡県と愛知県の県境になっています。それを水色の点線で表しています。
少し先に行くと国道一号線に合流し、ここから先は、今でも畑や工場の脇を進むような道になっています。
やがて右手に新幹線の擁壁が見えてきますが、江戸時代の東海道は斜めに新幹線を横切っていました。
新幹線を越え、JR東海道線も越えると、二川宿となり、一里塚がありました。
ここで広重の画を詳しく見ていきます。
副題にある「猿ヶ馬場(さるがばんば)」という場所は、別名「猿馬場(さるばば)」とも呼ばれ、姫小松の景勝の地として知られていました。画には、奥まで見渡せるなだらかな丘に、この姫小松が無数に描かれていますね。
左端の茶店の看板には、「名物かしハ餅」と描かれていて、ちょうど旅人がひとり立ち寄っています。手前右からは瞽女が三人、坂を登って茶店に向かっています。瞽女とは、三味線や胡弓を持って全国を回り、家々の軒を借りて浄瑠璃や歌などを披露する盲目の旅芸人のことです。
この名物の柏餅に関して、豊臣秀吉にちなむ逸話が伝えられています。小田原征伐に向かう途中の秀吉が、茶屋の老夫婦から振る舞われた蘇鉄の入りの餅を気に入り、戦で勝利した後、「勝和餅(かちわもち)」と呼ぶように秀吉が命じたとのことです。また、そのおばあさんの顔には皺がたくさんあったので、「猿が婆」と呼んでいたことから、地元地名の呼び方「猿ヶ馬場(さるがばんば)」と混同されるようになり、名物、「猿ヶ馬場の柏餅」が生まれたといわれています。
隷書版でも、柏餅を売る茶店で旅人が休んだり、駕籠を乗り換えている姿が描かれています。中央の遠景には、村らしきものも描かれています。しかし、記録によると猿ヶ馬場(さるがばんば)のあたりに民家はなく、ポツンと一軒、粗末な造りの、老夫婦が営む茶店があっただけのようです。
行書版でもアングルは違いますが、やはり名物の柏餅を売る茶店と、傍らで作業をする村人たちを描いています。後ろ側の丘には、景勝地である姫小松の丘も描かれていますね。しかし実際には、200mほど北側の境宿村から、昼の間だけ通ってくる老夫婦が、東海道を上り下りする旅人に、湯茶や団子、わらじなどを売っていただけだったようです。
狂歌入りは、榜示杭があることから、雨が降り出した二川宿の入口あたりを描いています。左の鳥居は、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請した二川八幡宮の鳥居ですね。
さて、この茶店のある場所ですが、二川宿界隈を探しても猿ヶ馬場(さるがばんば)という場所はありませんでした。そこで、古い絵地図の資料をよく調べてみると、意外なことが判りました。猿ヶ馬場という場所は、二川ではなくむしろ一つ前の宿、白須賀宿を出てすぐぐらいの場所に記述がありました。
この,東海道の様子を描いた絵地図に赤い丸を入れてみました。一番右にある看板のようなマークは、宿の終わりを示す高札です。つまり白須賀宿の端っこということですね。その左下には「名物かしわ餅」、「猿ヶ馬場」と書いてあるので、このあたりが画の舞台のようです。その左には境川と描いてあります。つまり、三河国と遠江国の国境と、白須賀宿の西端の間に、この茶店があったと言うことになります。
さらに、境川を越えたあたりには、「二川までの間家なし」という記述もありますから、茶店などはなかったようですね。
また東海道名所図會にも、文書による猿ヶ馬場の記述を見つけました。赤い枠の中です。境川の東をいくと左右に小松が多く風流で、猿ヶ馬場の茶店での柏餅が名物、と書かれてあります。住所記録も調べていくと、湖西市(こさいし)の古い地名で、境宿新田の字(あざな)として、「猿ヶ馬場」が存在していました。
ここでまた、現在の地図をご覧ください。縦の水色の破線が境川で、当時の国境です。東海道が曲がっているあたりが白須賀宿の西端ですので、その北西側が猿ヶ馬場で、その先が境宿村です。
ここで、このあたりを見た、Googleストリートビューにオレンジ色の東海道を入れてみました。これで猿ヶ馬場の位置が概ね分かってきますね。
廣重は、この位置関係をあまりよく分かっていなかったようですが、その視点であろう場所に、赤いグラデーションを入れてみました。柏餅屋の老夫婦は、猿ヶ馬場の少し北側の境宿村から、東海道のこの赤い視点あたりの店まで、通ってきていたようです。この境宿村は、加宿と呼ばれる宿場制度の補助的村で、白須賀宿に人出や馬をサポートしている村でした。
実際にここに行ってきました。当時、何もなかった場所は、今では住宅や畑となっており、小高い丘というイメージも薄くなっています。当時はこのあたり一帯に、姫小松が植わっていたと思われます。
廣重が五十三次を出版する以前に発表された、葛飾北斎、五拾三次の白須賀には、なんと名物として、かしわ餅を作る夫婦が描かれていました。やはりこのあたりの名物だったんですね。
さらに前回紹介した、廣重の白須賀の狂歌入りの画の狂歌の内容が、猿ヶ馬場のかしわ餅を謳っていました。どうやらあの茶店は、かしわ餅を売る茶店だったようです。実際には海の見える場所ではありませんでしたが。
秀吉が名付けた蘇鉄の実入りの「勝和餅(かちわもち)」は、あまりに特殊な味だったため、それが逆に有名になった原因だったようです。江戸時代の黄表紙や旅行記など、様々な文献で、この柏餅の味が、面白可笑しく残されています。そのひとつ、十返舎一九の黄表紙では、毒を仕込む食べ物として登場しますが、変な味だった柏餅のことを揶揄したのかもしれませんね。
また白須賀は、柏餅の発祥の地だともされてもいます。現代になって、白須賀のパン屋さん、鷲津の和菓子屋さん、豊橋の和菓子屋さんなどが,イベント用にこの「勝和餅(かちわもち)」を作って一時販売した記録はあるのですが、今は、それを買って味わうことはできないようです。蘇鉄味の元祖柏餅、味わいたかったですねえ。
廣重は、天保三年(1832年)の夏、36歳の時に、幕府の依頼で京都までの東海道を旅しています。これはその旅で残された肉筆画です。保永堂版の最初の五拾三次シリーズはそのすぐあとに発行され、大人気となりました。
ただし、この旅の行程で、このあたりの東海道を通らず姫街道を使ったのではないか。だから、廣重は実際の景色を見ておらず、通らなかったコースの画は根本的に間違った景色になってしまったのではないか、と私は思っています。
さてここで、二川宿からこの先のGooglemapをご覧ください。二川宿は今では、国道一号線や立岩街道がメインストリートになっていますが、東海道沿いには本陣資料館や商家などが残されており、当時の様子を知ることができます。
東海道はその立岩街道を横切り、岩屋観音を回り込むように、いよいよ吉田宿に向かいます。遠くに三河湾も見えていますね。



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