これは、幕府から朝廷に献上する馬が、藤川宿に入ってくる光景を描いたものです。
赤阪宿から藤川宿までの道のりは約9km弱ほどで、山間をほぼ直線で進みます。
赤阪宿を出て、長沢駅手前で、長沢一里塚があり、当時はこの右手に長沢城が見えていました。
本宿(もとじゅく)駅を過ぎて、東海道は再度国道一号線と合流し、藤川宿手前まで進みます。
一号線が名鉄の線路をくぐる前に、東海道は左の小道に逸れて、そのすぐ先に、廣重が画にした東の棒鼻があります。
東の棒鼻からは藤川宿となり、左手、山の上には、藤川城が見えていたようです。今は資料館のある本陣あたりを過ぎると、すぐに西の棒鼻に達し、藤川宿を出てしまいます。
廣重は江戸見附ともなっている東の棒鼻を、南から東北方面を見ていたようです。その視点を赤いグラデーションで入れてみました。
廣重の画の真ん中に立っている木の棒が榜示杭で、ここから藤川宿であるという目印です。この宿場の玄関にあたる場所を、棒鼻と呼んでいました。竹矢来の中には一緒に告知用の高札も2本立てられています。藤川宿の棒鼻は見附になっており、石垣を積んで土塁で固められていたようです。左に羽織袴姿で下座している役人が、馬を迎え入れる役になっています。左の旅人はたまたま居合わせてしまって、とりあえず座ってはいますが、きょとんとしています。その左で、太った子犬が、武士なんぞは我関せずで、じゃれ合っている姿がなんとも可愛いですねえ。
行列には、御幣を立てた黒と茶の馬、その前に先箱を担いだ一団、その前には棒を持った先祓いの二人がいます。両馬は、たてがみまでしっかりと整えられ、あたかも嫁にでる女性のようですねえ。
天保三年(1832年)の夏、廣重が36歳の時に、幕府の「八朔御馬進献(はっさくのおうましんけん)」の行列に従って、東海道を江戸から京の都まで行きました。その光景を描いた肉筆画が、東京国立博物館に残っています。
室町時代には、武家社会にも贈答のしきたりができあがり、将軍と朝廷の間にも贈答のやりとりがありました。江戸時代になると、幕府は8月1日に、朝廷に馬を献上することを重要な儀式として、「八朔御馬進献(はっさくのおうましんけん)」と呼んでいました。今で言う、お中元のようなものですね。この八朔(はっさく)とは8月1日のことです。
廣重の画は、ちょうどこの「八朔御馬進献」の行列が、藤川宿の東の棒鼻、つまり江戸見附に入ってきたところを画にしています。拡大してみると、行列の先頭が、藤川宿の画によく似ています。実は、この東海道五十三次シリーズは、この時のスケッチを活かして描いたとされていますが、真偽のほどは定かではありません。
隷書版は、この行列がもっと手前の山中村あたりの山越えを進んでいる場面を描いています。先頭である先箱の集団は省かれ、鉄砲や弓が先頭になっていますね。
行書版は、もう少し進んだ山中村の店を描いています。山中村では、麻の一種である苧(からむし)を縄状にして作った生活道具類が名物として売られていました。
狂歌入りは一転、雪の街道を少し上から描いています。宿はずれの緩い坂道をちょっと強調して描いたものと思われます。
実際に藤川宿の画になった、東の棒鼻を見てきました。この先、民家の向こう側は、国道一号線になっています。
逆側から見ると廣重の画にあるような、榜示杭や土塁、高札、竹矢来の代わりの植え込みなども再現されていました。廣重は実際にこの幕府のメンバーとして、約190年ほど前にここを通って、藤川宿に入っていったんですねえ。
町はいま、ゆっくりしたアンジュレーションの一本道になっており、江戸の面影と雰囲気を残したまま佇んでいます。
Googleストリートビューで進行方向を少し上から見てみました。東の棒鼻を過ぎると東海道はすぐにクランク状態となっているのが、いかにも城下町らしいですねえ。地元ではこれを曲手(かねんて)と呼んでいました。当時の街並みはどこまでも、戦のことを考えて作られたんですねえ。
東海道は、藤川宿を過ぎると、名鉄の線路を越え、再び国道一号線に合流し、山間を抜け出て、家康の生まれ故郷の岡崎宿に向かいます。



コメント