東海道五拾三次之内
宮 熱田神事
みや あつたしんじ
保永堂版 歌川廣重 画
大英博物館 蔵
これは、熱田神宮で5月に行われていた神事「端午の走り馬」を、熱田神宮の浜鳥居越しに描いたものです。
それではまず、東海道の道筋から見ていきましょう。
鳴海宿から宮宿までは、およそ6キロ。現代の私たちでも、ゆっくり歩いて1時間半ほどの距離です。
鳴海宿を後にし、北へ進むと丹下町に差しかかります。ここには秋葉神社の常夜灯が立ち、ここが正式な鳴海宿の西の端であったことを今に伝えています。
さらに天白川を渡り、少し右へ進むと、現在も立派な姿を残す笠寺の一里塚が現れます。
笠寺といえば、1300年の歴史を誇り、徳川家康とも縁の深い笠寺観音で知られていますね。
東海道はこの先、名鉄線と並ぶように北上し、山崎川を越えて松田橋で名古屋高速の下をくぐります。
その後、国道1号線と並行しながら進み、東海道線、名鉄常滑線を越えると、右手に伝馬町の一里塚が見えてきます。ここも丁寧に復元され、案内板が設けられています。
やがて東海道は、突き当たりのような形で行き止まりを迎えます。
その手前右手には、かつて上知我麻神社がありました。現在は熱田神宮へ移されていますが、正月の初恵比寿で賑わった、地域に親しまれた神社です。
この突き当たりは追分にもなっています。右へ進めば熱田神宮を経て美濃路となります。
美濃路は金山手前で佐屋街道と分かれ、佐屋宿を経て三里の渡しへ。さらに美濃路は、名古屋城付近では木曽街道や善光寺街道へと分岐していました。
一方、突き当たりを左へ進むと、歌川廣重が描いた場所を越え、1キロ足らずで七里の渡しの湊に到着します。
江戸時代に渡し場だった場所は、今は公園になっていて、常夜灯と時の鐘が復元されていますが、廣重の描いた浜鳥居は、今はありません。
実は廣重がこの画を描くにあたり、参考にしたと考えられる資料が三つあります。
一つ目はこの『東海道名所図會』。七里の渡しから熱田神宮までを広く描いた図で、右下に見える鳥居が浜鳥居です。
ここに神事の進行ルートを黄色の破線で、廣重の視点を赤いグラデーションで重ねてみましょう。
二つ目は、七里の渡しをやや拡大し、海側から描いた『尾張名所図會』です。
こちらにも同じようにルートと視点を重ねると、より分かりやすくなります。
そして三つ目が、『尾張名所図會』巻三に描かれた「端午馬の塔」。
これは尾張・三河地方で行われた「馬の塔」、すなわち馬追祭の様子を描いたものです。
熱田神宮では、端午の節句に行われ、勇壮な馬の疾走によって、雨乞いや村の安泰、五穀豊穣を祈願していました。
さて、ここで再び地図に戻り、実際の位置関係を探ってみます。
現在の水辺のラインは、江戸時代とは大きく異なっています。そこで資料をもとに、当時の水辺を補ってみました。
水中にある緑の四角が東浜御殿、緑の丸が西浜御殿、水色の丸が浜鳥居の位置です。
そこに廣重の視点を赤いグラデーションで示します。
黄色い丸は本陣の位置を示していますが、この一帯は熱田神宮の門前町であり、伊勢参りの旅人が集う一大拠点でした。宮宿は天保14年、1843年には、本陣・脇本陣・旅籠合わせて250軒、家数3000軒、人口1万人超という、東海道随一の規模を誇っていたのです。
この地図を思い浮かべながら、廣重の画を見てみましょう。
鳥居の前を、二組の男たちが雄々しく走っています。揃いの法被を身にまとい、裸馬を追うその姿。
この神事は「御馬頭(オマントウ)」とも呼ばれ、本来は村ごとの奉納でしたが、10年に一度、複数の村が集まって行う「合宿」の様子を、廣重は描いたと考えられています。
荒菰を巻いた裸馬、気合を込めて綱を引く男たち。
左奥には、各所で迎え火を焚いて祝う様子も見えます。
ただし鳥居の下は神の通り道。一般の人々が通ることは固く禁じられていました。
『尾張名所図會』の「端午馬の塔」を拡大して見ると、廣重がこの神事をよく観察し、再現していたことが分かります。
なお今回使用した画は、初摺りではありません。
初摺りの多くは鳥居の朱が酸化し黒く変色しているため、色の状態が最も良いものを選びました。
初摺りに近いものも見てみましょう。
今回の画では浜鳥居が反り上がっていますが、実際の浜鳥居は神明造で、反りはありませんでした。
隷書版では鳥居を神明造に修正し、湊全体を俯瞰しています。
奥が七里の渡し、手前が東浜御殿、左が名所「寝覚の里」です。
行書版は浜鳥居越しに海を望む構図。
左に東浜御殿、右に「寝覚の里」。反りのない鳥居が確認できます。
狂歌入りも同様です。旅人が鳥居をくぐらず脇を通っている様子が描かれていますね。
天保10年、鳥居下を通った日蓮宗信者が処罰された記録からも、この鳥居の厳格さがうかがえます。
大正7年頃の浜鳥居の写真を見ると、周囲は広場ではなく、鳥居の笠木が屋根のない五角形であったことも分かります。
もし向きも江戸末期と同じなら、廣重は位置関係を大きく誤っていた可能性があります。
実際ここに行ってきました。現在は静かな街並みが広がり、浜鳥居も水辺も失われています。現在浜鳥居はなく、右側の水辺もありません。
これはもう少し海側に下がった地点から見た写真です。大正の頃の写真を参考に見てみると、青い建物の背後あたりに浜鳥居があり、その右側に海へ突き出した東浜御殿が存在していたと考えられます。
東浜御殿と西浜御殿は、当初は城として築かれ、その後、大名の宿泊施設やもてなしの場として用いられました。西浜御殿は約1300坪、東浜御殿はおよそ3300坪に及んだと伝えられています。
これは船着き場あたりから東を見た写真です。正面に出島のようになっていた東浜御殿、その右側に、名所「寝覚の里」があったと思われます。
これは七里の渡しの船着き場から海方向を見た現在の景色です。左は浅瀬が続き、右は満潮時にはほぼ海となっていたようです。
廣重は36歳のとき、「八朔御馬進献」に同行したとされていますが、七里の渡しを使わず、佐屋街道と三里の渡しを選んだ可能性が高いと考えられます。
これは東海道の七里の渡しと、佐屋街道の三里の渡しのコースを、現代の地図におとしこんだ地図です。これに江戸時代の水辺状態を被せてみます。
「八朔御馬進献」の一行が三里の渡しを選んだと思われる理由は、同行したはずの廣重が描いた描写の誤認、そして何より天皇に献上する馬を七里以上にわたり海上で運ぶリスクの大きさでしょう。
Googleストリートビューで廣重の視点を、少し上から見て、東海道をオレンジ色にしてみました。それに西浜御殿と、東浜御殿を描きいれてみました。
さらに、ここであろうという位置に浜鳥居も入れてみました。
右側の東浜御殿は、水路に囲まれていましたが、今ではどこが水路か全くわからなくなっています。
今度は逆側、熱田神宮上空あたりからこの先を見てみます。左からやって来たオレンジ色の東海道は、七里の渡しから船に乗り、海上から桑名宿を目指します。
ただし、当時は、満潮になるとほとんどがこんな状態で、海が入り込んでいて、広大な干潟のようになっていたようです。



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