45 石薬師 石薬師寺

日本語版

今回ご覧いただいているのは、宿場名の由来ともなった石薬師寺の伽藍を、遠くの田園越しに描いた一枚です。静かな農村風景の向こうに、歴史の舞台がそっと姿を現しています。

まずは、広域の地図から確認してみましょう。
東海道は、四日市宿を出ると、次の石薬師宿まで、およそ10.8キロ。
その途中、日永の追分で伊勢街道と分かれます。
追分を過ぎて6.5キロほど歩けば石薬師宿。
さらに半分ほど進めば、そこはすでに庄野宿です。

石薬師宿が正式に宿場となったのは、1616年。
四日市宿と亀山宿の距離が長すぎたため、石薬師寺の門前町だった高富村に、新たな宿が設けられました。しかし8年後には、すぐ先の庄野にも宿が置かれ、結果として、この一帯には小さな宿場が密集することになります。

当時、日永付近の東海道は幅およそ9メートル。
両脇がわずかに高くなり、松並木が旅人を迎えていました。
現在では、その名残となる一本の松だけが、静かに立ち続けています。

やがて旅人は、東海道と伊勢街道の分岐点――追分へと至ります。
ここには、伊勢神宮を遥拝する鳥居が置かれ、旅の目印となっていました。

前回の四日市宿で、隷書版の餅屋の画が描かれていた場所ですね。

さらに進むと、伝説の英雄、ヤマトタケルゆかりの坂、杖衝坂(つえつきざか)が現れます。急な上り坂は、今も往時の旅の厳しさを伝えています。

道はやがて国道と重なり、鈴鹿市へと入る手前で、再び左へと分かれていきます。

石薬師宿の本陣を過ぎると、今度は国道25号線を跨ぎ、緩やかに右に下ると宿の名前にもなった石薬師寺の門前に到着します。寺領の東側を東海道が通っているので、廣重はもう少し東に外れた畦道あたりからこの画を描いたと思われます。

地図に廣重の視点を赤いグラデーションで示しておきます。

当時、廣重の視点から見るとこんな景色だったようです。
画面左に見えるのが山門。その前を、旅人と僧侶が庄野方面へと進んでいきます。
右手には石薬師宿へ続く、緩やかな坂道。畦道では農夫が荷を運び、田んぼでは農作業に励む人々の姿も見えます。鳥の声が聞こえてきそうな、静かな秋の田園風景。ここには、派手さはなくとも、確かな暮らしの営みが息づいています。

石薬師寺は正式には真言宗高富山瑠璃光院石薬師寺(たかとみざんるりこういんいしやくしでら)といい、弘法大師空海が一夜のうちに爪で掘ったといわれる、花崗岩の自然石を浅く掘った190cmの薬師如来をご本尊としています。江戸時代参勤交代でこの地を通る城主が、道中の安全祈願を行ったことは知られており、境内には、参勤交代で通過した大名たちが安全を祈願した石段も、今なお残されています。

廣重がこの地を描く際に参考にしたとされるのが、この東海道名所図會です。
比較してみると、その影響が随所に見て取れます。

廣重の視点を赤のグラデーションで示してみました。

隷書版は、石薬師宿の問屋場を描いています。真ん中を空けた構図がいいですねえ。

行書版は、おそらく宿場に入る手前でしょうか、雪景色を描いています。

狂歌入りも問屋場を描いています。こちらは、藤枝宿の画とほぼ一緒ですね。

ここでさらに広域の衛星写真をご覧ください。
オレンジ色の東海道は、大きく孤を描くように東西を抜けていて、その途中に各宿場があります。江戸から来た旅人のほとんどは四日市の先、追分でクリーム色の伊勢街道に流れていきました。
大坂、京都方面からやって来た旅人は、東海道、大和街道を通って關で合流し、やはりクリーム色の伊勢別街道から伊勢詣りに向かいました。

江戸時代、庶民の移動は厳しく制限されており、やっかいな関所を越えるには正当な理由が必要でした。しかし、「信仰のための参詣」は数少ない例外として認められ、役人や寺も通行手形を出しやすかったようです。実際には、名物を食べたり、景色を楽しんだりすることが旅であっても、建前が「参拝」であれば幕府も容認せざるをえませんでした。

こんな理由で当時の伊勢詣りは、ひとつのブームとして、東海道を支えていました。1830年の「文政のお陰参り」では、わずか数ヶ月で約500万人が伊勢を目指したと言われています。これは当時の日本の人口の約6分の1が、伊勢に向かったとされています。

東海道の宿場には、参勤交代などの幕府の公用を支える義務が課せられていましたが、公用だけでは宿場は赤字でした。その赤字を補填し、事実上の利益をもたらしたのが、時価で宿泊する伊勢詣りの旅人たちでした。
しかし、東海道の石薬師、庄野、亀山の三宿はその恩恵からすっかり外れてしまっていました。

実際にここに行ってきました。これがほぼ廣重の視点からみた景色です。門前を左右に走っているのが、東海道です。

門前の東海道から石薬師宿方面を見た写真です。左に上がっていって、橋を渡った先が石薬師宿本陣です。

廣重の視点上空からGoogleストリートビューで見た写真です。廣重は画の中で、石薬師寺の後ろに大きな山をいくつも描いていますが、実際にはそんな山は存在しません。廣重が構図的に、バランスを取るために入れたものと思われます。

Googleストリートビューでこの先を見てみます。石薬師寺を過ぎるとすぐ先に庄野宿が見えています。左から斜めに流れてくるのが鈴鹿川です。江戸時代の石薬師宿は、伊勢詣りの人が通らず庄野宿も近いことから、休憩以外には使われなかったようです。記録によれば石薬師宿は、本陣が3軒、旅籠は15軒と東海道の中では、一番小さい宿でした。

現在の石薬師寺周辺には多くの民家がありますが、当時はかなり小さい村でした。宿泊客だけでは食べていけないため、住民の多くは農業を兼業して生活をしのいでいました。ほぼ、この石薬師寺の参詣者だけが収入源という状況でした。

村は宿設置当初から経営難に苦しみ続け、火の車状態がつづいた宿場でした。そのため、あまりの困窮で宿場の維持が困難であるとして、幕府に対して何度も助成金や優遇措置を求める嘆願書も出されていました。
今ではこの物静かな景色は、そんなことを微塵も感じさせませんが、決して華やかではなかった東海道の寂しい宿に、とても現実的な物語が隠れていました。

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