48 關 本陣早立

日本語版

東海道五拾三次之内
關 本陣早立
せき ほんじんはやだち
保永堂版 歌川廣重 画
シカゴ美術館 蔵

夜明け前——まだ空が白みきらない時間。
歌川廣重は、本陣からの出立を控えた大名と、その準備に忙しく立ち働く人々の姿を描きました。

亀山宿をでると、鈴鹿川左岸北側をほぼ流れに沿うように、約5.8kmで關宿に到着します。

京口御門を越え、急坂を下って小川を渡ると、ほどなくして現れるのが野村の一里塚。
今なお、当時の姿を色濃く残しています。

さらに行くと、小さな白川の道標が現れ、その先からは、長い直線道路になります。

この道は、大岡寺畷と呼ばれる東海道で最も長いと言われた歴史的な畦道になります。今でもその真っ直ぐな道が長さは2キロ以上続き、案内板も立てられています。

鈴鹿川から少し離れ、支流の小野川を渡ると、左に下りる道とその入口に鳥居が見えてきます。これが伊勢別街道との分岐点、關宿東の追分です。ここで鳥居をくぐって左に行くと、江戸橋で伊勢街道と合流していました。その先が藤堂高虎によって整備された城下町、当時安濃津(あのうつ)と呼ばれていた、いまの津市を経由して伊勢まで行くことができました。

ここからさらに西に進むと關宿の街並みで、今でも江戸の頃の街並みを彷彿とさせる東海道が、約1.8キロほど続きます。

關宿の西端は、西の追分となり、大和街道との分岐点になります。左に行く大和街道は、伊賀上野を経由して、奈良まで行くことができました。

さらにその北側には、鈴鹿関跡。
古代から記録に残る日本三関のひとつであり、關宿の名の由来ともなった場所です。

では、廣重の画を詳しく見てみましょう。
背後の木々が黒く沈んでいることから、まだ夜明け前であることがわかります。
左手前には三人の男たち。すでに旅支度を整え、煙管をくゆらせる余裕すら見せています。そのうち一人は荷を担ぐ役、残る二人は槍を扱う役で、朱と黄色の袋に包まれた槍が屋根に立てかけられています。
奥には本陣の主人が立ち、提灯を持つ男に指示を与えています。
門前には、刀に柄袋をかけた武士たちが、誰かの出立を待つように、わずかに身をかがめています。こうした細やかな人物描写が、画面に静かな緊張感を与えています。

この画の中に張り巡らされている幔幕の水色のマークは、「田中」をデザインしているようで、廣重の父方の実家の名前だそうです。
真ん中の箱提灯のマークは廣重のカタカナ、「ヒロ」をデザインしています。左側端にぶら下がっている短冊の「仙女香」と「美玄香」は、白粉と白髪染めだそうで、スポンサーが売っている商品です。その左に読みづらいですが、「京ばし南てんま町三丁め坂本氏」と書いてあります。その坂本氏が、「仙女香」と「美玄香」の作り手で、このシリーズのスポンサーとなり、いくらか広告料出していたようですね。こんな時代から広告が存在していたんですねえ。シリーズの中で何回か、この名前が出てきます。

隷書版は、關宿の東の追分、伊勢別街道との別れ道の雪景色を描いています。赤い鳥居と灯籠は伊勢神宮の目印ですね。

行書版では、旅籠の夕景。
旅人の袖を引く老婆の姿が、どこか人情味を感じさせます。

狂歌入りでは、大名の出立を見送る人々。
その一様にかしこまった姿が、どこか微笑ましくもあります。

北斎は關宿からもう少し先に行った名所を描いています。阪之下宿に行く途中に夷岩と大黒岩と言うおもしろい形の岩があり有名でした。東海道名所図會によると、そのほかにも、観音岩、女夫岩(めおといわ)などというのもあったようです。

実際にここに行ってきました。廣重の画になった伊藤本陣は今はなく、跡だけになっていますが、街並みは今でも、当時を感じさせる佇まいとなっています。
また、江戸時代の關宿といえば夏祭りが有名でした。これは近郷近在に知られた祭で、関西の祇園祭や天神祭と同じに語られるぐらい有名な祭でした。狭い關宿の街を最盛期には16基もの山車(やま)が練って歩き、「これ以上のことはできない」、という意味の「関の山」と言う言葉は、ここから生まれたといわれています。

關宿は西の追分で大和街道が、東の追分で伊勢別街道がそれぞれ分岐していたため、これらの街道を往来する人々で賑わっていました。また、参勤交代や伊勢参りなどの交通の要衝としても江戸時代を通して大変繁栄しました。しかし維新を迎えた關宿は、明治23年開通した現JR関西本線も、その後の国道1号線も旧街道からはずれた場所を通ってしまいました。

このおかげでこの關宿は唯一、江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町家が200軒あまり、この街に残りました。旧東海道の宿場のほとんどが旧態をとどめていない中にあって、唯一往時の町並みが残る關宿は1984年、東と西の追分の間の約1.8kmが、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

町屋の敷地は、間口が狭く奥行の長い短冊状になっています。各家の主屋は、東海道に面して建てられ、主屋の背後には角屋(つのや)、離れ、土蔵・納屋などが細長く並んだ配置になっていました。

この写真をベースに、当時の關宿の様子を、AIで再現してみました。当時はたくさんの旅人達がこの街並みを賑わしていました。

同じAIで廣重と同じ大名行列の早朝出立を画にしてもらいました。私が撮った画像の影響で、廣重とは随分違う構図になっていますが、朝の雰囲気はわかりますね。

Googlemapストリートビューで、この先をご覧ください。東海道は、江戸の香りの残す街並みを離れ、西の追分から道なりに一号線に沿って山間の道を進み、いよいよ難所と言われた鈴鹿越えに向かっていきます。
追分を左に折れると大和街道で鈴鹿川を渡り、こちらも山間の道をほぼ25号線に沿って伊賀上野方面に向かいます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました