廣重は、筆捨山という水墨画を思わせる山と、その手前にある茶屋の景色を描き、副題を「筆捨嶺」としました。
まずは、亀山・關・阪之下の三つの宿場を一望できる広域地図をご覧ください。亀山宿からほぼ西へ向かっていた東海道は、関宿の手前で伊勢別街道と分かれます。さらに關宿を過ぎると、大和街道と分岐します。その後は北北西の方向へ進み、鈴鹿川に沿いながら山あいへと入っていきます。關宿から阪之下宿まではおよそ6キロ弱ですが、そのほぼ中間地点に、今回廣重が描いた筆捨山があります。
關宿西の追分を過ぎ、市瀬のあたりまで進むと、進行方向に、すでに筆捨山の姿が見えてきます。
その筆捨山を過ぎ、東海道が国道一号線から離れる沓掛のあたりには、今も昔ながらの民家が多く残っています。
阪之下一里塚のあたりから、阪之下宿が始まります。当初は、この場所から約1.3キロほど上流に宿場がありましたが、1650年9月に鈴鹿川の土石流で壊滅し、幕府の支援を受けて、現在の位置に移されました。
東海道が再び国道一号線と合流するあたりで阪之下宿は終わり、全体として1キロほどの小さな宿場町であったことが分かります。しかし江戸中期には、本陣三軒、脇本陣一軒を含め、旅籠が五十一軒もあり、難所・鈴鹿峠越えを控えた東海道有数の繁栄地だったようです。
ここで、廣重が描いたであろう視点を、赤いグラデーションで示してみましょう。鈴鹿川が大きく左右に蛇行するあたりが、その場所です。
ベースの地図をGoogleストリートビューに切り替えると、このあたりの東海道が山間を進んでいる様子がよく分かります。
さらに東側から立体的に見て、東海道をオレンジ色で示してみました。こうして見ると、東海道と筆捨山の関係がはっきりと分かります。この山は標高289メートルで、礫岩と砂岩からなる山であり、栄養の乏しい土壌に赤松林が広がっています。
ここに、廣重の視点を赤いグラデーションで重ねてみます。
この山は「岩根山」と呼ばれ、岩が折り重なるように独特の景観を作り出し、その間を古い松が曲がりくねって生えていました。室町時代末期の絵師・狩野元信がその美しさに心を奪われ筆を執ったものの、思うように描けず、筆を投げ捨てたという伝説から「筆捨山」と名付けられたと伝えられています。
当時の岩根山は、中国の水墨画に登場する蓬莱山を思わせる風景だったようですが、現在では岩肌が所々に見えるものの、全体としては木々に覆われています。
廣重は、紺色の遠い山並みを背景に、松の生えた奇岩が重なる筆捨山を南画風に描き、荒々しい岩山として表現しています。山の中腹からは、鈴鹿川へ流れ落ちる二筋の滝も描かれています。深い鈴鹿川の谷を挟んだ対岸の茶屋では、外で手をかざしたり、煙管をくゆらせたりしながら、奇景を眺める旅人たちの姿が描かれています。
品書きが下がった茶屋の中では、店の女中に話しかける二人連れの旅人が描かれ、その横には、この景色を旅日記に記しているような旅人の姿もあります。さらに手前には、天秤棒を外し、荷箱に腰を下ろして山を見つめる旅人もいます。街道の下からは、茶屋で使う水や食料でしょうか、桶を背負った牛と、それに付き添う村人が描かれ、その後ろを面白そうについてくる子どもも、愛らしく描かれています。
隷書版では、高低差のある崖ではなく、右に筆捨山と鈴鹿川を望みながら東海道を歩く旅人たちが描かれています。ただし、描かれているのは巡礼者や六部、虚無僧などで、伊勢参りの参道であることを意識しているようにも見えます。
行書版では、崖の険しさが強調され、霞の立ちこめる深い谷越しの眺めを楽しむ茶店の旅人たちが描かれています。お茶を運ぶ主人の表情が、この場面に穏やかさと優しさを添えています。
狂歌入りの版では、筆捨山が深い山峡として描かれ、画面の大部分を山が占めています。ごつごつした山並みと滝へと続く川の流れが描かれ、対岸の旅人がその景観を指差しながら眺めています。
しかし、実際の筆捨山には滝はありません。
廣重がこの絵を描く際に参考にした『東海道名所図会』を見ると、そこにも茶店が描かれ、左に筆捨山、その下に鈴鹿川が流れています。よく見ると、茶店の横には牛の姿も描かれています。廣重はこの図をもとに、高低差を強調し、鈴鹿川を深い渓谷として描いたようです。
さらに、その元となった図も存在します。それが『伊勢参道名所図会』です。ここにも茶店が描かれ、鈴鹿川は崖ではなく、道から少し下ったところを穏やかに流れています。
さらに時代を遡る絵図も見てみましょう。關宿と阪之下宿の間で、筆捨山と東海道の間に鈴鹿川が流れている場所は、現在の市瀬付近にあたります。この絵図には、民家らしきものも描かれています。
また、別の絵図も見てみると、筆捨山を望む場所に「新茶屋」と「藤乃茶屋」と記された場所がありました。実際には東海道を挟んで二軒の茶屋が並んでいたようです。
実際に現地を訪れてみました。
この家が当時の茶屋であったかは定かではありませんが、東海道がわずかに高台になり、鈴鹿川から少し上った位置にあたります。実際に鈴鹿川が大きく右に曲がる地点の内側で、正面に見えるのが筆捨山です。
廣重の構図に合わせて撮影した写真がこちらです。室町末期に狩野元信が見たという水墨画のような岩山は、今では木々に覆われています。日本の多雨な気候が、木々にとって理想的な環境であることを感じさせます。
AIで当時の風景を再現してみました。道の形状は異なりますが、狩野元信が筆を投げ捨てたという蓬莱山のような山の姿を、少しだけ感じ取ることができます。
Googleストリートビューでこの先を見てみましょう。旧阪之下宿が豪雨による土石流で壊滅したという事実も、地形を見ると納得できます。東海道はそこから急坂を登って鈴鹿峠を越え、やがて近江国へと入ります。甲賀の山の向こうには、遠くに琵琶湖の姿も見えてきます。



コメント