こちらに描かれているのは、山あいの街道を行く人々が、突然の夕立に見舞われ、急坂を慌てて駆け出す瞬間です。激しい雨と風の中、旅人たちの姿がリアルに描かれています。
まずは、ここでも広域の衛星写真から、庄野宿の少し悲しい位置関係を見てみましょう。
右側、江戸からやって来た旅人の多くは、四日市の先、追分で東海道を離れ、クリーム色で示した伊勢街道へと流れていきました。
一方、大坂や京都方面から来た旅人も、東海道や大和街道を通って関で合流し、やはり伊勢別街道から伊勢詣りへ向かいました。
江戸時代に一大旅行ブームを巻き起こした伊勢詣り。
この巡礼の旅人たちは、東海道の発展を大きく支えていました。
しかし、閑散とした東海道に位置する庄野宿と両脇の石薬師、亀山の三宿は、その恩恵からすっかり外れてしまっていました。そのため庄野宿は、石薬師宿と同じように宿経営には大変苦労したといわれています。
ここで、石薬師宿と庄野宿を一緒に見られる地図をご覧ください。
東海道は石薬師宿を出ると、およそ2.9キロ。石薬師寺からは、わずか2キロあまりで庄野宿に到着します。
しかも、その1.5キロほど手前に、今回の作品「白雨」の舞台となった場所があります。
庄野宿が設置されたのは1624年。東海道の宿場の中では、もっとも遅い時期でした。
また、石薬師宿との距離は、東海道でも二番目に短い間隔となっています。
石薬師寺を出た東海道は、やがて蒲川(がまがわ)を渡ります。
橋を越えた先には石薬師の一里塚があり、その先の道は、まるで畦道のような細い街道になります。さらに関西本線を越えたあたりから、旧東海道は現在、道路としては残っていません。
これは後に、四車線の国道25号線が整備された際、多くの道筋が付け替えられてしまったためです。現在は、国道25号線の加佐登町の交差点を右に折れ、側道に下りると、廣重が描いた「白雨」の場所に近づくことができます。
さらに国道を進み、次の信号を右折すると、庄野宿の東入口へと出ます。
ただし、かつて国道25号線と並行していたこのあたりの旧東海道の一部は、現在コンクリート工場の敷地となっています。
ここで、この付近の地図を少し拡大してみましょう。
この地域は、道路や川の流れが大きく変わっているため、今回はもうひとつの資料を重ねてみます。第二次世界大戦後、日本に進駐していたアメリカ軍が、1946年5月に撮影した航空写真です。
現在の国道25号線がまだ存在していないため、当時の地形がとても分かりやすくなります。ここに東海道と庄野宿を重ね、さらに廣重の視点と考えられる場所を、オレンジ色のグラデーションで示してみました。
副題の「白雨」とは、夏の夕立のこと。
突然の激しい雨に見舞われた旅人たちが、坂道を慌てて走り出す様子が、実に生き生きと描かれています。画面左では、急な坂道を、菰と菅笠を身につけた旅人が駆け上がっています。そのすぐ後ろでは、駕籠に合羽を掛けた旅人を乗せ、駕籠舁きが杖を突きながら坂を登っています。
さらにその右には、向かい風に菅笠を押さえながら、鍬を手に簑をまとった農夫が、前のめりになって坂を下っています。その後ろには、傘を差して坂を下る旅人の姿。
青い脚絆をつけた旅人は、強風にあおられながら、番傘を半開きにして坂を下っています。その人物の配置や動きから、まるで画面の向こうから「おい、雨だぞ!」といった声が聞こえてきそうです。
背後の木立は強風で大きく傾き、雨は坂道に対してほぼ直角に吹きつけています。
民家の屋根の高さと比べても、この道がかなり高い場所を通っていることがわかります。
なお、半開きの番傘に版元の「竹のうち」、「五十三次」の文字が入っているものは、初摺りに近い作品といわれています。
こちらは、大正7年に出版された写真集「東海道」に掲載された、白雨の場所の古写真です。この辺りはかつて高宮と呼ばれ、「おこん茶屋」という名物茶屋がありました。廣重は、このおこん茶屋のあたりを描いたのではないかと考えられています。
「おこん」というのは、この茶屋で働いていた看板娘の名前。街道を行き交う旅人たちが、口々に語るほどの美しい女性だったと伝えられています。しかし彼女は天保3年に亡くなり、さらに明治29年の洪水によって茶屋の建物も流されてしまいました。
写真の右側には、茶屋の跡地とされる井戸が残っています。さらにその奥には、鉄道の線路らしきものも見えています。
隷書版は、庄野宿に入る手前の畦道で、たき火で暖を取る旅人と人足、それに僧侶を描いています。
行書版では、庄野宿の問屋場での人馬継立の様子が描かれています。
当初、庄野宿では100人、100疋の人馬を用意するよう定められていました。
しかし旅人が少なく、経営が苦しかったため、幕府に願い出て、1758年には30人、20疋まで減らして運営していました。
狂歌入りは、庄野宿終わりの川俣神社の向かいにあったの一里塚を描いています。大きな榎が目印でした。
では、実際の場所を見てみましょう。
現在ここに立ってみると、見えるのは道路とガードレールばかり。
しかも急坂どころか、むしろ逆に傾いたような道になっています。
これが道路改修によるものなのか、あるいは廣重の演出なのかは分かりません。
ただ、このあたりは川の砂礫が溜まりやすい場所なので、当時は少し高くなっていた可能性もあります。
もう少し前に出てみると、見通しがよくなります。
廣重の描いたような急坂ではありませんが、どこか「おこん茶屋」があったかもしれないと想像させる雰囲気があります。前方に見えるのが関西本線の線路。その先には、廣重の描いた木立と、旧高村集落の一部が見えています。
こちらは、この付近の上空から西を向いたGoogleストリートビューです。
当時の東海道は残っていませんが、想定される道筋をオレンジ色で示してみました。
遠くには、鈴鹿の山並みが見えています。ここにも廣重の視点をグラデーションで重ねてみます。
そしてこちらが、かつての東海道を通ってたどり着く、庄野宿の東入口です。
当時ここは、旅人の姿もまばらな小さな宿場でした。旅籠はわずか15軒、村人の数も千人に満たないほど。その外れには、美しい女性が切り盛りする一軒の茶屋。そんな、静かで素朴な暮らしが続いていました。
そして今でも、この庄野には、とても落ち着いた街並みが残っています。
実際に歩いてみると、どこか心がほっとする――
そんな不思議な空気が、今もこの街に流れているのです。



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