江尻とは巴川の砂洲にできた町で、この画はその江尻宿、今の清水や清水港あたりの遠景を描いたものです。
興津宿から、江尻宿までは約4.3kmです。江戸時代の人なら、ほぼ1時間で歩いてしまう距離です。
興津宿を出ると右側に見えてくるのが清見寺です。このあたりの名勝地で、現在ではJRの線路で境内が分断されているのが、少し哀しいですね。今東海道から見上げても伽藍の屋根ぐらいしか見えません。
東海道は1号線バイパスをくぐり南下していくと、庵原川(いはらがわ)を渡ります。
少し先に行くと細井の松原で、東海道はバイパスを右に逸れ、小道に入ります。当時はここに360mほど続く、きれいな松並木があありました。
また、この別れ道には、「無縁さんの碑」というのが建っています。
この並木が昭和19年に油採取のため伐採されたときに、ここから多量の人骨が出土しました。これは東海道で亡くなった旅人を葬ったものとされ、町内の人々は丁寧に人骨を集め寺に納めました。松原の別れ道には慰霊碑を建て、当時ここで倒れた旅人の霊を慰めました。
この無縁さんの碑を見ると、東海道はただの道ですが、旅には常に危険が伴っていたのだろうと思い知らされます。また、当時のひとびとの、死生観が何となくわかるような気がしてきます。
現在の清水駅に行く道である、江尻東の信号を横切り、東海道は大きく右に曲がり江尻宿の本陣に向かいます。
江尻宿はこの先、左に曲がり、稚児橋で巴川を渡ります。渡った先には高札場がありました。
少し進むと二股に分かれ、左が清水湊、右が東海道でした。東海道を西に進むと道標のある追分に達します。この追分は、左に行くと清水湊に戻ることができました。今では有名な追分羊羹の本店があります。
実は現在、この「江尻」という地名、それは何処?と思う人がほとんどです。最初に清水市に吸収され、さらに静岡市清水区となってからは、江尻町という地名が残るぐらいになってしまいました。この清水という地名は、江尻宿と同じぐらいに、巴川の河口で栄えた清水湊から来ています。地図の江尻宿と清水湊に、オレンジ色を被せてみました。
これは当時の江尻宿を俯瞰で見た絵図です。
江尻は、もともと室町時代にはこの地を支配した今川氏が、駿府の外港として、水軍基地で利用し、商業港としても発展していました。1571年には、海のなかった甲斐の武田氏が進出してこの地を治めて、江尻城を造ります。1582年、武田氏滅亡後は徳川氏の勢力下になります。徳川家康が江戸幕府を開いてからも、駿府との二元政治を展開していたため、西国に睨みを利かす軍港としての役割も担っていました。
1601年に新たな東海道の宿駅として53駅が定められましたが、幕府が駿府手前の江尻宿を半ば強引に加えました。この不自然なぐらいクランク状に曲がっている東海道の先にあった、武田信玄が造らせた江尻城を、この時同時に廃城にしています。
1615年には、幕府から清水湊の42軒に回船問屋としての営業権が与えられ、港の中心は巴川河口に移りました。江戸、大坂、甲府をはじめ東海各地との物資輸送の中継基地・清水湊としてたくさんの廻船でにぎわい、大きく発展しました。
そして清水と言えば、清水次郎長(本名/山本長五郎)が有名ですが、清水湊の中心地あたりで1820年2月に生まれました。広重がこの五十三次シリーズを発刊し終えた翌年に、養父が亡くなり15歳で米穀輸送の店を継いでいます。その後家業に従事する一方で博奕と喧嘩を繰り返し、一度は喧嘩の果てに人を斬り、無宿人となりましたが、幕末には清水に戻りました。
慶応4年(1868年)には、清水港に逆賊船としてそのまま放置されていた咸臨丸の中から、新政府軍に殺された乗組員の遺体を収容して丁重に葬り、お墓も建立しました。次郎長は「死ねばみな仏にござる。仏に官軍も賊軍もない」と、言い放ったと言います。その縁で、旧幕臣の山岡鉄舟と知り合い、その協力で港の整備など清水の発展に大いに寄与しました。この平気で人を斬ってしまう次郎長の、人の命に対する考え方も、興味深いものがありますねえ。
広重の画を詳しく見ていきましょう。
この画の一番の特徴は、シリーズの中で唯一、廣重得意の庶民が一切描かれておらず、完全な風景画となっています。後ろの山は左が愛鷹山で、右側は、それに続く箱根二子山と伊豆半島を描いています。本来は、この左には富士山が見えているはずですが、見切れています。
一番手前の左側に江尻宿の屋根が描かれ、その奥に結構な数の舟が描かれています。右から黒く突き出ている岬が三保の松原の北端で、三保真崎です。手前清水湊と、奥の駿河湾にはおびただしい数の舟が描かれ、この江尻が天然の良港だったことを覗わせます。また、清水湊の沿岸には、商業用の弁才船の他に、漁業用の小さな舟や鋭角に干してある網をも描かれています。また当時沼津から江尻まで舟が出ていて、富士川や薩埵峠をパスして東海道をショートカットする渡船もありました。
廣重の江尻は、この画を参考に描かれたともいわれています。似てるといえば似ていますね。つまり、廣重の画の視点は、家康のお墓のある久能山の上から見た景色、ということになります。
隷書版は、三保の松原から富士山を正面に見た景色です。左のちょっと高い山が愛鷹山で、対岸は、蒲原、興津、由井あたりになります。
行書版は、追分を南に折れて、清水湊の集落に入る手前の、雪景色を描いたものです。
狂歌入りは、江尻宿の西端あたりから富士山の見える景色を描いています。
北斎は、現在の清水駅の北側、東木戸あたりの旅人二人を描いています。江戸時代、寒い頃の旅姿は、こんなだったんですねえ。
さらに北斎は、冨嶽三十六景でも江尻を描いています。風が強いというだけで、ここがどこか、正確には分かっていませんが、清水湊からの道で巴川河畔あたりを描いたのではないかといわれています。
さて、Googlemapで見た三保の松原をご覧ください。日本三大松原のひとつとされ、国の名勝にも指定されています。
現在では、この巨大な砂洲の東側、外海にそって細く松林が7kmほど残っています。
実際三保の松原というと、東側からのこんな景色が想像されますよね。
しかし、江戸時代はかなり状況が違っていたようです。広重が描いた二枚の竪画をご覧ください。
江戸時代の文書では、当時は三保半島のすべてが松で覆われていたとなっています。三保は江戸幕府の天領であり、羽衣伝説の御穂神社の朱印地、いわゆる鎮守の杜として長く維持されてきました。
しかし、明治維新後にその枠が解かれ、御穂神社周辺の松、特に清水側が壊滅的に伐採されたといわれています。実際に当時の状況を、緑色で再現してみると、こんな感じではなかったかと思われます。
実際に廣重の描いた場所に行ってみました。これが久能山の日本平あたりから見た、廣重の画に一番近い景色です。当時はなかった、埠頭と巨大港湾施設が、海を大きく覆っているのが分かります。駿河湾の先に見えている街は、富士市ですね。
ここでもう一度廣重の画をご覧ください。先人が描いた資料があったとはいえ、広重の画の作り方に驚愕してしまいますね。
富士山も画から外して、家康の墓がある久能山からの景色を、三保遠景という副題にしてこの江尻宿の画としました。この画には、生死に関わる人は一切描かれていません。伊豆半島を取り去って広い海をイメージして、昔は軍港だった清水の海に平和そうに浮かぶ弁才船をたくさん描きました。
廣重は、この国に長い平和をもたらした徳川家康に敬意を払い、お墓のある久能山からの平和な景色を、江戸市民に画として見せたかったのかもしれません。
最後に富士山から愛鷹山、伊豆半島も入れた、実際の駿河湾全体の写真をご覧ください。
Googlemapで清水駅上空あたりから、東海道をオレンジラインにしてこの先を見てみます。見渡す限りずっと先まで、大小さまざまな建物がひしめき合っています。
東海道は、江尻をでると草薙を経て府中宿はすぐ先です。その先には、安倍川が流れています。



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