23 藤枝 人馬継立

日本語版

この画は、藤枝宿の問屋場(といやば)で行われていた、荷物の引き継ぎ風景を描いたものです。

岡部宿から、藤枝宿までは、ほぼ南南西へ約7.9kmの旅となります。

岡部宿のスタートは、今では国の登録有形文化財になっている大きな旅館、柏屋(かしばや)からになります。この向かいが、江戸時代は岡部宿の本陣でした。

問屋場と高札場を過ぎて、さらに南下していくと、今は国道一号線の藤枝バイパスをくぐることになります。ちょうどその手前が岡部宿の西の端、つまり京方見附ですね。ここにはちょっと芸術的な石柱もあります。

東海道はここから小さな川を二回ほど渡り、鬼島の一里塚(おにじまのいちりづか)を経て鬼島(おにじま)の立場に達します。立場とは旅人の休憩所のような場所ですね。当時はこの正面に田中城が見えていたようです。

ここからは城下町らしく道がクランク状になり、道路拡張で東海道が一部分断していますが、最終的にさわやか通りという通りに合流します。少し進むと右側に藤枝成田山の看板が見えてきます。その向かいが藤枝宿の東の端で、ここから藤枝宿が始まりました。当時は、ここが追分で、左に曲がると焼津湊に行くことができました。

地図を大きくします。
東海道は、さわやか通りから、白子通り、長楽寺通り、ちとせ通りと名前を変えながら左に緩く曲がる上伝馬通りまで行くと、右側に二軒、本陣がありました。そのすぐ先に広重が画にした問屋場がありました。

東海道はこの先、当時は徒渡りだった瀬戸川を、今は橋で渡って、そのすぐ先に志太一里塚がありました。

当時の江戸幕府の道中奉行が造った絵図を、江戸見附あたりから瀬戸川まで旅気分を味わってみてください。
ここに出てくる問屋場(といやば)とは、江戸時代の伝馬制度において街道の宿場で人馬と、荷物を引き継ぐ場所で、そのために馬と人足の用意と提供などを行っていました。物流量が増えるに従い、宿場発展の要を握る重要な場所でもありました。
また、問屋場は、助郷と呼ばれる、税金代わりの労働力の人材管理まで行うところで、業務の主宰者は問屋と呼ばれていました。その他に主宰者の助役、さらに人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付、人馬に荷物を振り分ける馬指などが勤務していました。
ですので、今で言う、流通の仲買にあたる「とんやさん」とは違い、問屋(といや)は、人馬の取次ぎを仕切る商人のことを指していました。

これらを踏まえて、広重の画を詳しく見て、当時の問屋場の人と馬の動きを楽しみましょう。
一番右奥で座って、脇の人と話しているのは宿役人です。問屋かその助役ですね。建物の床が少し高くなっているのは、荷主が馬に乗ったまま事務処理ができるようになっているためです。その左の編み笠、羽織姿の武士は荷主で、右側の帳付と左の馬指と一緒に馬の割り当てや荷物の状態などを確認しています。なんだか話しあっている会話が聞こえてきそうですね。

真ん中手前の二人組は、息杖(いきづえ)を持ち、ちょうど荷物を持ち上げて、さあ、そろそろ行こうか、と声を掛け合っています。その後の二人は、背中の汗を拭いたり、鉢巻を締め直したりしているので、ひと仕事終えて荷物を置き、「かんだりぃだらぁ(くたびれたよ)」とかいいながら、しばしの休憩ということなのでしょうか。静岡の方言はあまり詳しくないので、当たっているかどうか分かりませんが。
二頭の馬の間で中腰の人足は、馬に履かせた草鞋の状態を見ていますね。その左の人足はそんなことにはお構いなしで、馬に荷物を乗せようとしています。馬は大丈夫なんですかねえ。
一番左の人は黒い箱を下ろし、自分もこれからひと休みしようしています。その右の煙管をくわえながら天気を心配しているかのような人足が、いい表情ですねえ。

真ん中奥には、飼馬桶に顔を突っ込む馬がいたり、その右には、空の駕籠が二つ置いてあったり、その右の土壁が少し崩れていたり、そこには御用提灯が二張り立てかけてあったりと、ものすごくリアルに情景を描いているがいかにも広重らしいですねえ。

隷書版は藤枝宿に入る手前の松並木越しに田中城を描いています。ほの暗い雨の中を足早に通り過ぎていく旅人、農夫、戻り駕籠の駕籠舁きなどを描いています。

行書版は瀬戸川の徒渡しを描いています。瀬戸川が大河川ではない、ちょっと小さい川だというのが分かりますね。

狂歌入りも瀬戸川の渡しを描いています。右側には簡易の橋が架かっていますが、これは冬の水量の少ないときに、仮にかけてある橋ですね。よく見ると向こう岸で止めてありますね。

実際にここに行ってみました。今、この場所は上伝馬交番と駐車場になっています。その脇に、広重のこの画が大きく掲げてあります。江戸時代には、たくさんの人々がここを通り、ここでたくさんの荷物や馬や人が、行き来していたんですねえ。

GoogleMAPのストリートビューをご覧ください。廣重が画にした上伝馬町の問屋場から南方向を見たものです。オレンジ色の東海道も描き入れてみました。
廣重が藤枝で、問屋場の光景を描いたということは、この当時の流通システムにかなりの敬意を払っていたようです。江戸時代の集落、特に城下町などでは、発展のために問屋場を設置し、やがてそこは街の中心となり、「伝馬町」と名付けられていきました。廣重のこのシリーズの、「五拾三次」も、53ヶ所の取り次ぎという意味ですから、宿場は単なる宿が密集する集落という意味ではなく、人とものが流通する駅だったんですね。

もう少し広範囲のGoogleMAPのストリートビューもどうぞ。藤枝でも、江戸時代までは瀬戸川手前の街並みが藤枝の中心地だったはずなのですが、今は鉄道の藤枝駅のあるあたりの方が高いビルなどが建ち並び、賑わっているように見えますねえ。時代は流れている、ということなのでしょうか。
東海道は、瀬戸川を渡り、二里先の嶋田、そして大井川を目指します。

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