29 見附 天竜川圖

日本語版

これは、見附宿と浜松宿の間に横たわる天竜川の、船による川渡しの風景を描いています。

袋井宿から見附宿までは約5.9kmですが、広重が画にした天竜川までは、さらに7kmほど西に行かなければなりませんでした。まずは、宿場間の行程をご覧ください。

東海道は、袋井宿を過ぎてしばらく行くと、原寸大に復元された木原一里塚に会うことができます。

そこから、さらに西に進むと太田川を渡り、大日堂の古戦場がある小山を登ります。

さらに西に進んでいくと秋葉山の常夜灯の先に見附宿の榜示杭があり、正式にはここから先が見附宿になります。

東海道は、見附宿の本陣を越えると川を渡る手前で、左に曲がり今の磐田駅方面に向かい、途中で遠江国分寺跡の脇を通っていきます。
本陣の先を曲がらずにまっすぐ行くと、池田近道や姫街道と呼ばれた、天竜川の渡船場までの最短距離を行くことができました。しかし、この道は籠や馬、荷物などが通りづらく、狭い山道だったので、正式には一度南に下る東海道が本道となっていました。

東海道を通り天竜川近くまでいくと長森という立場がありました。ここには、有名な「長森こう薬」と呼ばれる、あかぎれや切り傷に効く塗り薬が売られていて、とても人気でした。

一方、緑色の線で示した姫街道を行くと、一言坂と呼ばれる古戦場を通って、かなりの距離を短縮して、池田村の渡し場に行くことができました。

この一言坂では、1572年、甲斐国から攻め込んできた武田信玄と遠江の領主であった31歳の徳川家康の戦があり、本多忠勝の活躍で徳川軍は無事に浜松に退却することができました。その翌年、有名な三方ヶ原の戦いでも、徳川と織田信長の連合軍が武田軍に大敗させられてしまいます。

ここで、明治期の国土地理院の地図をご覧ください。
これらの戦いに絡み、徳川家康は、常に徳川軍に協力してくれた池田村の住人に天竜川の渡船の運営権を保証しました。これにより、池田村は江戸時代の終わりまで天竜川の渡船を独占的に運営し、遠江国からその運営費用の一部を徴収する権利を得ていました。こうしたことから天竜川の渡船は、別名を「池田渡船」とも呼ばれていました。

地図の緑色の線にご注目ください。江戸時代以前は、太平洋岸を通る東海道の代わりをする道は、この鎌倉街道でした。当時は、各地から鎌倉幕府のある鎌倉に向かう路を、総称して鎌倉街道と呼んでいました。このあたりでは、京鎌倉往還、あるいは鎌倉街道と呼ばれていました。平安の頃には、天竜川の渡船の利用が一般化し、その西岸の池田村が賑わいを見せていました。

その後、江戸時代になると街道の整備が行われ、東海道は鎌倉街道よりも荷車や参勤交代が通れる南方に迂回させられました。紺色の道ですね。緑色の旧鎌倉街道は、その先の街道と一緒に、まとめて姫街道とも呼ばれました。

ここで広域地図をご覧ください。緑色の姫街道は、天竜川を渡ってからまっすぐ西に行くと行くと浜名湖の北側を抜けることができました。

このコースは、「入鉄砲に出女」で有名な検問の厳しい新居関を通らず、気賀や三ヶ日を経て、本坂峠から御油に抜けることができたので、「姫街道」と呼ばれていました。

天竜川の渡船場は、池田村と対岸の中野町村(なかのまちむら)にありましたが、江戸時代の池田の渡船場は川の状態によって、上・中・下の三か所がありました。この地図の中洲と川幅の状態が、江戸時代に近いのではないかと思われるので、破線で、三か所の、渡船位置を再現してみました。さらに、広重の視点はこれではないか、というあたりに赤いグラデーションを入れてみます。

次にウィキメディアの地図と、Googleのストリートビューをご覧ください。天竜川は、長野県の諏訪湖を水源とし、約213kmを流れて遠州灘に注いでいます。

天竜川は別名「あばれ天竜」とも言われる古来からの難所で、ずっと渡船が利用されていました。理由は、大井川のように、歩いて渡ることができないぐらい、流れがとても急だったからです。一番奥には水源となる諏訪湖が見えていますね。

今度はAppleのストリートビューをご覧ください。当初この天竜川は、二俣あたりが扇状地の要にあたる場所で、川水が南側の平地をを網の目のように流れていました。やがてその水は、川の堆積作用と地形の影響で浜松側より見附側の流れが主流となっていきます。その後天竜川は、小天竜と呼ばれた馬込川と大天竜と呼ばれた今の天竜川の、二つの大きな流れになっていきました。

当初の天竜川は地図で示したこの水色部分を水が自由に流れていて、この地域にさまざまな水害と、肥沃な土や砂をもたらしていました。その痕跡のひとつが中田島砂丘です。1675年(延宝3年)に、当時天竜川の本流とされていた、麁玉川(あらたまがわ)と呼ばれていた馬込川上流の、「彦助堤」が仕切られ、概ね今のような馬込川と天竜川の姿になりました。

この天竜川の変遷を踏まえて広重の画をご覧ください。
天竜川は、幾筋もの川筋があり、大きな中洲もありました。手前の二艘の舟は、池田側の細い川筋の方の船頭で、一人は煙管をくわえながら、広い川筋の中野町側から客が乗り継いでくるのを待っています。背景には、川霧が立ちこめているのが分かりますね。
江戸後期の記録だと、減水時で、天竜川全体の川幅は約800mで、池田側が幅18m、中野町側が45mの川筋があって、真ん中に砂利と砂の広大な中州がありました。

1710年頃の規定で、通常天竜川は、渡し賃が旅人ひとりで十二文でしたが、川を二回渡るので、その倍の二十四文を払っていました。当時の職人給与で比較すると、一文を50円として、約1,200円ぐらいですね。
中洲には、荷物を背負った馬が一頭いますが、当時の馬は三十六文、荷物が三十文の渡し賃が必要でした。これもそれぞれに2回舟に乗せるわけですから、倍の百三十二文の料金が必要でした。天竜川を渡るには、舟以外方法がなかったので、仕方がなかったのですねえ。
ところで、広重のこの画は、初摺りではなく後刷りです。

初摺りに極めて近い画は、刷り職人のぼかしのための目印が、黒い横線として一緒に刷り込まれていて、どうやら広重と彫り師、摺師の連携がうまくいかなかったようですが、川霧の様子は、雰囲気がありますね。

後摺りの方がグラデーションのバランスも良く、いい雰囲気に描かれていますよね。

隷書版は、雄大に描かれた船渡しの遠景ですね。よく見ると中洲は、松の木が大きく育つぐらい、常時陸地化していたことが分かりますねえ。

行書版は、遠近の渡船がすれ違う構図になっています。舟に乗っている客の表情と、船縁に立って舟を操る船頭の対比が面白いです。

狂歌版は天竜川の渡船場まで、荷物を振り分けに積んだ馬が下りていく画を描いています。

実際にここに行ってきました。河川敷の利用がかなり進んでいますが、上空からのGoogleのストリートビューでその4ヶ所の撮影位置をご確認ください。

これが堤防の外にある天竜渡船場跡の石碑です。

これは堤防の上から川を見た景色です。普段水が流れない河川敷は整備され、駐車場やジョギングロードになっています。

これは河川敷を過ぎて、水際近くまで行った風景です。手前には自然の堤防ができあがり、その向こうにはかなり広大な中洲が広がっているのが分かりますね。

この堤防を越えていった景色がこれです。上流で水量が制御されているとは言え、かなりの急流の天竜川を見ることができます。

いくらか視点を上げた方が広重の絵の雰囲気がわかるのではないでしょうか。
現在ではこの暴れ川に、鉄道や高速道路を含めて何本もの橋が架かっていて常時、対岸を行き来することができます。なにより、この広くて乾いた河川敷が治水の成功を語っていますね。ただ、ちょうどダム放流の後だったみたいで、Googleの天竜川は全部、青濁りしているのがなんとも哀しいですね。

天竜川上流では、貯水容量の3割が砂で埋まっている佐久間ダムを始め、数多くのダムやおびただしい数の砂防ダムが、天竜川に流れるさまざまなものを押しとどめて、下流の治水を保っています。

また一方で、現在では砂の供給が止まった中田島砂丘や遠州海岸など、砂浜がどんどん削られて消波ブロックなどで、流れ去る砂を人工的に止める事態に陥っています。

ゆったりした空気が流れる広重の画をもう一度見返してみると、大規模な治水計画によって、何か大事なものを上流に置いてきてはしまいか、そんなことを思ってしまいます。

Googleのストリートビューで、この先もご覧ください。東海道は、青濁りの天竜川を渡り、一号線をくぐり、かつて小天竜と呼ばれた馬込川脇にある、濵松宿に向かいます。

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