これは、鳴海宿の手前――
東海道沿いに広がる、有松絞の店先を描いた一枚です。
東海道は、池鯉鮒宿を出ると、北西へおよそ11キロ。
次の宿場、鳴海宿を目指します。
今回の舞台となる有松は、その鳴海宿の、わずか2.5キロほど手前に位置しています。
池鯉鮒宿をあとにし、逢妻川(あいづまがわ)を渡ってしばらく進むと、
歩道橋の脇に、ひっそりと佇む一ツ木一里塚の跡が現れます。
意識していなければ、思わず通り過ぎてしまいそうな場所です。
ここから東海道は、現在の国道一号線に寄り添うように、
南北を縫いながら進んでいきます。
やがて境川を渡り、伊勢湾岸自動車道の高架をくぐって、
今の豊明市へと入っていきます。
少し進むと、国道一号線を離れ、左手の細い道へ。
そこに残るのが、今も立派な史跡として保存されている、阿野一里塚です。
名鉄・中京競馬場前駅の左手には、桶狭間の古戦場。
東海道はここで再び一号線を離れ、また静かな小道へと分け入っていきます。
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)――
永禄3年、1560年。二万五千の大軍を率いて尾張に侵攻した今川義元に対し、織田信長は奇襲を仕掛け、義元を討ち取りました。この一戦をきっかけに、信長は尾張を完全に掌握。今川の人質であった松平元康、後の徳川家康は、清洲同盟によって信長と手を結び、三河での独立を回復します。
日本史の大きな流れが、ここで静かに動いたのです。
では、再び地図に戻りましょう。
有松の景観保存地区を抜け、名古屋第二環状自動車道の手前。そこに、ひっそりと有松一里塚が残されています。
そこから1キロ弱で見えてくるのが、平部(ひらぶ)の常夜灯。
ここが、鳴海宿の正式な東の入口です。
もっとも、鳴海宿の本陣があったあたりは、現在では少し寂れた裏通りのような印象を受けます。華やかな有松の町並みとは、対照的ですね。
それでは、歌川広重が描いた二軒の有松絞の店を、詳しく見ていきましょう。
店先には、火事に備えた天水桶。瓦屋根に連子窓(れんじまど)、水引暖簾。
いずれも、かなり裕福な商家であることがうかがえます。この店は、竹田家や岡家ではないか、とも言われています。左の店では、上がり框で武家らしき人物が商談中。
周囲には、見本でしょうか、紅や藍で染め上げられた浴衣や布地がずらりと掛けられています。大胆な大柄模様――これこそが、有松絞の大きな特徴です。
奥には反物が重ねられ、実にリアルな描写です。
手前の女性二人。左の女性はいかにも立ち寄りたそう。
一方、後ろの女性は「先を急ぎましょう」とでも言いたげです。
その後ろでは、駕籠に乗った女性が、今まさに降りようとしています。
駕籠かきが姿勢を変え、そっと駕籠を下ろす――
一瞬の動きまで、丁寧に描かれています。
右奥の店は、やや高台にあるようで、坂を下る馬に乗った女性は、自然と前かがみになります。
こうした細部の描写が、画面に生き生きとした空気を与えています。
『東海道名所図會』では、
有松絞の制作工程そのものが描かれています。
絞り作業に励む女性を、のぞき見る武家。
煙草の火をもらう人足。
右手では、染め上げた反物を子どもが干しています。
隷書版では、
有松絞の店が連なる町並みを、遠近感たっぷりに描写。
当時、20軒ほどの店が並んでいたようです。
やはり主な客層は、女性だったようですね。
行書版では、店内の様子が、さらに詳しく描かれています。
紅と藍だけでなく、
薬用として知られる黄蘗(キハダ)の樹皮を用いた、
緑の染めもあったことがわかります。
狂歌入りでは、
隷書版とは正反対の方向から町を描写。
大きく、繁盛する店の様子が印象的です。
そして北斎東海道の「鳴海」。
絞りの工程に携わる女性を、どこか色っぽく描いています。
何をしているのかが、ひと目でわかる。
浮世絵が、当時の“ガイドブック”であったことを、実感させますが、
鳴海周辺の作品の多くが有松絞を描いていることからも、
その名声の高さが伝わってきます。
ここで、東海道分間絵図を見てみましょう。
江戸中期の絵地図ですが、落合集落から鳴海宿まで、有松以外は、ほとんど木々しか描かれていません。
千人塚は、桶狭間の戦いで亡くなった人々を弔うための塚です。
現代の地図と重ねてみると、位置関係はこの通り。
有松は、江戸時代初めには、松林が広がる無人の荒野でした。
盗賊が出没する、危険な地帯でもあったのです。
そこで尾張藩は、1608年、この地を集落として開き、移住者に税の免除などの特典を与えました。
その移住者八組のひとりが、有松を大きく発展させることになる、竹田庄九郎でした。
1610年、名古屋城築城のため、
豊後府内藩から多くの武士や人夫がこの地に滞在します。
庄九郎は、彼らの着ていた豊後絞の衣に注目しました。
農地の少ない有松村で、庄九郎が新たな産業として選んだのが、絞り染め。
これを「九九利絞」と名づけ、三河木綿や知多木綿に絞り染めを施した手ぬぐいを、
東海道を行き交う旅人に売り始めます。
やがて尾張藩は、有松絞を藩の特産品として保護し、独占権を与え、庄九郎を御用商人に取り立てました。有松絞は、全国に名を知られる存在へと成長します。
見事なマーケティング戦略でしたね。
その後、有松村は天明4年の大火で全焼。
しかし今度は、火に強い塗籠造(ぬりごめづくり)で町を再建します。
こうして、現在に続く有松の景観が生まれました。
有松絞は、今も伝統工芸として受け継がれ、
商家の町並みは、往時の繁栄を静かに語り続けています。
さて、実際に現地を訪れてみましょう。
現在の有松は、江戸時代の雰囲気を色濃く残す、絞りの町。
広重の描いた構図に重なる景色は、おそらく、このあたりでしょう。
町の一部は、重要伝統的建造物群保存地区に指定され、
有松・鳴海絞会館では、その歴史と技術を、わかりやすく学ぶことができます。
Googleストリートビューで、有松から池鯉鮒方面を振り返ると――
かつてこの一帯は、江戸時代初期には人家もまばらな荒野で、街道には盗賊が出没する危険な地域とされていました。しかし今、私たちの目の前に広がるのは、落ち着いた町並みと、人々の暮らしが息づく街の姿です。
東海道は、単なる交通路ではありませんでした。人と物、そして技術や文化が行き交うことで、新たな産業を育てる――いわば“インキュベータ”としての役割も果たしていたのです。
さらにこの周辺には、徳川家康が後に260年に及ぶ泰平の世を築くきっかけとなった、桶狭間の古戦場があります。その歴史の舞台の近くで生まれ、発展していったのが、絞り染めという新しい産業でした。このあたりの東海道は、戦の記憶と平和の時代、そして産業の芽吹きが折り重なる場所。
一つの街道が持つ、実に多彩な表情を、私たちはここに見ることができるのです。
そして、有松から鳴海宿をぬけて宮宿方面へ。
鳴海は、その昔「鳴海潟」という海岸で、
潮の音が鳴るように聞こえたことが地名の由来とされています。
東海道は、いよいよその鳴海から尾張の中心へと進んでいきます。
遠くに名古屋の高層ビル群も見えてきました。



コメント