20 府中 安倍川

日本語版

これは、府中といいながら副題は安倍川、つまり安倍川の川渡しを描いたものです。背景の山の形から、東から安倍川を見た画です。

江尻宿から府中宿へは、約11kmなのですが、安倍川の渡しまではそこから先にまだ2km以上あります。これは徳川家康が、河川改修で流れを変え、府中宿付近を入り乱れて流れていた安倍川を西側にまとめて移したからです。

東海道は、江尻宿を出ると東海道本線と静鉄の線路を一緒にくぐり、草薙あたりで、ひろい通りと合流し一里塚を通過します。

さらに、東名高速をくぐると線路に突き当たって分断されてしまいますが、当時は道なりにまっすぐ行くことができました。

東海道は東静岡駅の北側を新幹線を縫うように進み、3度目の新幹線ガードをくぐった先には府中宿の、実質的入口だった東見附がありました。

東海道は、新静岡駅を通り、左に曲がり江川町通りに入ります。そのまま市役所の方に行くと梅ヶ島街道と藁科街道に入ります。梅ヶ島街道は、身延道を経由して甲府に行くことができました。東海道は呉服町通りの伊勢丹を左に曲がって、南下します。

さらに東海道はもう一度クランクして、新町通に入り安倍川に向かいます。

安倍川橋手前の左には、今でも安倍川餅を売るお店が実在しています。

ここで、当時描かれた絵地図で、府中宿の全体をご覧ください。
府中は、徳川家康が駿府城を築いて、晩年もここで過ごしていました。幕府の直轄地で、駿府城の南側に広がる巨大な宿場は、都市としては上方、江戸に次ぐ大きさを誇っていました。本陣二軒、脇本陣二軒、旅籠43軒、人口は12万人ほどだったと言われています。

ここで、拡大した府中宿の絵図を東から西までじっくりご覧ください。
府中は徳川家康が将軍を隠居してからも住んでいた場所でもあり、西国からの備えとして、河川改修以外にも様々な土木工事なども行われていました。そのため、吉原と並び称されるような、幕府公認の遊郭も安倍川近くに置かれていていました。ただ、画を見るとわかりますが、遊郭までは府中の中心部から2km以上離れていて、旅人は旅籠で、一息ついてから新たに馬や駕籠を仕立てて行っていました。

安倍川町遊郭の揚代は千六百文と、八百文の二種類があって、当時、東海道の宿場の飯盛女の平均が五百文前後だったことを考えると、安倍川町遊廓の遊女はかなり高かったということになりますね。五百文は、当時の大工の日当であてはめてみると、現在の25,000円ぐらいにあたります。

実際に広重の画を詳しく見ていきましょう。
広重は、この五十三次のシリーズで、川越しの画を数点描いていますが、この安倍川は、庶民だけを、それも大きく描いています。赤銅色のからだをした川人足がたくさん描かれ、一番手前は、一番安い肩車の男女がそれぞれ川を渡っています。
右奥の女性が乗っている、平輦台と呼ばれる4人で担ぐ、手すりなしの方法だと、肩車の6倍の料金を取られてしまいます。

同じ平輦台に駕籠ごと乗っている女性は、濡れやしないかと、なんだか心配そうに下を向いていますねえ。対岸からは馬に荷物を乗せた一行がこちらに渡ってきていますが、馬子の引き綱を引く表情が対照的で面白いですねえ。
対岸の奥には、蛇籠と呼ばれる川工事用の石の詰まった竹かごがたくさん置いてあります。その奥の山は、徳願寺というお寺を擁する山で、その左、南側の奥が次の宿、丸子宿になります。

隷書版は、安倍川町遊郭の入口を描いています。遊郭は街のはずれにあったので、画のとおり客は駕籠や馬を仕立ててやってきていました。

行書版は、安倍川の名物、安倍川餅を作っている茶店と、その前を行き来する旅人たちを描いています。旅人の格好から察するに、伊勢参りのようですね。

江戸初期に徳川家康が、安倍川の畔の村、弥勒の茶店に立ち寄ったところ、そこの店主が安倍川上流で取れる砂金に見立て、搗きたての餅にきな粉をまぶして差し出しました。そんな伝承から名物になった安倍川餅は、今でも安倍川の脇でいただくことができます。

狂歌入りも安倍川遊郭の夜の風景を描いています。遊郭街の大きさが縦横二丁あったので、別名二丁町遊郭とも呼ばれていました。見た目は柳があったりで、吉原遊郭を彷彿とさせますね。

北斎は、駿河細工と呼ばれる、竹細工を描いています。駿府では良質の淡竹(はちく)が産出されて、これを使ったさまざまな竹細工が駿府の特産品となっていました。

実際にここに行ってみました。今では、河川改修で川幅が広がり、上流には立派な安倍川橋も架かっています。

少し視点を上げたGooglemapストリートビューをご覧ください。こちらの方が広重の描いた世界に似ているかも知れません。

この安倍川を河川改修によって、府中の街から遠ざけた初代将軍家康は、1605年(慶長10年)に将軍職を隠居して二代目を秀忠に譲りました。しかし現役将軍の権威に配慮しつつもここ府中で政を行うという、大御所政治を行っていました。

この先を見たGoogleストリートビューもご覧ください。東海道をオレンジ色にしました。
その、二代目秀忠も隠居して、将軍職を息子の家光に譲って府中に来ましたが、やはり1632年に病死するまで、府中で政治の実権を握り続けました。
この安倍川を見ていると、親子は似るものなのかなどと思わせてくれます。
ただこの二人が、その後300年近く続く「争いのない平和な江戸時代」を方向づけたことも確かですね。

なお、江戸三代将軍家光の頃には、この江戸防御のための川渡しを廃止して橋を架けようとしました。しかし、この産業としての川渡しそのものが、予想以上に地元の経済に寄与していることがわかり、ほとんどの川で明治に入るまで、川渡しを継続していたそうです。
この川渡しが、過去の争い事を顧みる産業遺産と変化していきました。

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