04 神奈川 臺之景

日本語版

これは、今の横浜駅西口の北側あたりにあった「臺」と呼ばれた、景色のいい高台から海を見た景色です。

川崎宿から神奈川宿までは約10キロ、東海道は、川崎宿をでると、八丁畷を経てJRの線路と第一京浜に挟まれた道を南西方向に進んでいきます。

途中、江戸をでて初めての一里塚を越えると、鶴見川に架かる鶴見橋という、当時としては立派な橋を渡ります。その先、鶴見神社と総持寺を越え、緩く右に曲がっていきます。

第一京浜との合流地点あたりには、上に高速道路が走り、生麦事件の碑が立っていて、その横には日本初のビール工場があります。東海道は、この先しばらく第一京浜と一緒に進んでいき、京急の神奈川新町駅あたりが、神奈川宿の東端になります。

やがて、滝の橋を渡る手前に本陣があり、このあたりが神奈川宿の中心部となります。

その後東海道は、緩やかに右に折れると、青木あたりではゆっくりと坂を登って、広重の描いた場所に近づいていきます。いまはこの先が青木橋と鉄道に寸断されまっすぐ行くことは不可能ですが、江戸時代の東海道は真っ直ぐ進むことができました。その当時は今より規模が大きかった本覺寺(ほんがくじ)の門の前を通っていました。

ここを過ぎると「臺」とよばれた茶屋が林立するエリアに入ります。広重はこのあたりから見た景色を描いています。その視点を赤いグラデーションで入れておきます。

その先、高みを越えて、徐々に坂を下りて、今の横浜駅西口、鶴屋町あたりが神奈川宿の西の端になります。

さてここで、東海道を紺色で書き入れた国土地理院の地図をご覧ください。

これに江戸時代の地形を想像できる、明治14年頃の地図を被せてみます。

それに江戸時代は海であったであろう場所を水色にして、神奈川宿のエリアを緑色の線で表し、広重の視点も入れてみました。

そのまま現代の地図に戻してみると、神奈川宿のあたりの東海道は、ほぼ海に面しており、広重の視点あたりからは、海がよく見渡せたことがわかりますね。

ここで、1824年(文政七年)に神奈川宿の様子が描かれた、旅行ガイド的な絵図をご覧ください。まず、宿全体の鳥瞰絵図ですが、先ほどの地図をおしなべて描いたようになっているのが分かりますね。

赤い点線のあたりが、臺町です。東に海を臨み、「袖ヶ浦」という入江を見渡す、東海道有数の景勝地として知られていました。神奈川宿は、長さが4km近くで、人口は約5800人、本陣1軒、旅籠数58軒、街道の両脇にはに1300軒に及ぶ旅籠や家々が軒を連ねていました。

広重が画にしたあたりの詳細図がこれです。東海道が広大な境内を持つ本覚寺の前を通っているのが分かります。ここにも広重の視点を赤いグラデーションで示しています。

江戸名所図會で描かれたもう少し分かりやすい、6枚つなぎの絵図をご覧ください。本覚寺の門前から東海道が西に向かって進んでいきます。最終ページで描かれているのが、臺の茶屋街と神奈川湊、左の海が袖ヶ浦です。
神奈川湊は鎌倉時代に開かれた港で、人や物が行き交う水上交通の要衝でした。1858年(安政5年)の日米修好通商条約ではこの神奈川湊も開港の対象でした。

広重の画を詳しく見ていきましょう。
広重の描いた、この「臺」というあたりは、海に突き出た桟敷から海が見渡せる茶店が並んでいる、とても人気のある場所でした。ほぼ左側を占める海は、袖ヶ浦で、手前下が神奈川湊になります。沖には、帆を上げた弁才船がリズミカルに並び、一番手前には帆を下ろした弁才船と、その周りに漁師の舟が数隻描かれています。その帆柱の後ろに見える山々は、房総の山々で、その右側が山手と野毛の山です。

右側の東海道の海側にはびっしりと茶店が建ち並び、客待ちの女が、旅人を引きずり込もうとしています。その後ろの、巡礼用の白衣である笈摺(おいずる)を着た親子と、厨子を担いだ旅人は、何事もなかったかのように通り過ぎようとしています。
この本尊仏の厨子を担いだ旅人は、法華経を写経し、66ヶ所の霊場に収めるために旅をしている、六部様と呼ばれる僧です。彼らは、白頭巾に錫杖などの姿で、家々を訪れて食料を乞うなど、悟りを開くために厳しい修行の旅を送っていました。

今回採用した画は、ほぼ初摺りですが、あまり状態がいいとは言えません。しかし、後摺りと比べると、広重の意図がより分かる気がしています。
未公認の宿場女郎に誘われている俗人の旅人と、修行の身に置かれている旅人のコントラストがとてもおもしろいですね。

また、変わり図も存在しますが、全体の構図が違っています。海に波除けの杭が見えていて、空が随分広くなり、雲の位置や色もが違ってきていています。しかしその分、茶店の看板が読みやすくなっていて、手前から、芳屋、たるや、玉川、さくらや、とよめます。

広重がこの画の参考に使った元画が、江戸名所図會です。
それには、右端にひときわ大きな店として「さくら屋」が描かれています。このお店は名前をかえて、現在も営業しています。

隷書版は、臺の茶屋街を少し西側から海と一緒に描いたものです。ここでもさくらやの名前が見えています。奥の海の広さがかなり強調されていますね。

行書版は、東海道をもう少し先に行った浅間下から、臺の茶屋街を見返した画です。茶屋の崖側には柱を組んで桟敷を作ってあるのがわかりますね。棒手振りと旅人の比較が広重らしいですね。

狂歌入りは、茶屋街を下りてきたあたりの景色を描いています。山手や野毛の山が、同じように描かれています。右の茶屋の前では、子どもも遊んでいます。

北斎の五十三次もご覧ください。宿の窓から、二人旅の女性が、袖ヶ浦の海と、雀を眺めています。艶っぽさの表現がうまい、北斎の画ですねえ。

実際にここに行ってきました。
坂道の角度は違いますが、だいたいこのあたりから見た景色ではないかと思われます。海は全く見えません。

少し先に行くと左に、「さくらや」として広重の画に描かれた店が、割烹田中家と名前を変えが現在も営業しています。

この「さくらや」には一時、坂本龍馬の妻「おりょう」が働いていたそうで、高杉晋作やアメリカ領事のハリスもよく訪れていたとのことです。

「おりょう」、本名「楢崎りょう」は非常に頭が良く酒を好み、人情深く、客あしらいもうまく、当時無数にいた仲居の中でも飛び抜けて目立つ存在だったようです。勉強家で英語を喋り海外事情にも詳しい彼女ですから、領事のハリスにも会っていたのかも知れませんね。

GoogleMAPで、この田中家のあたりを上から見てオレンジ色の東海道を描き入れてみました。ビルがびっしり建ち並んでいて、何が何だかわかりませんねえ。

そこで、当時海だった場所に水色を被せてみました。東海道が袖ヶ浦に沿って大きく湾曲しながら進んでいることが分かります。その風光明媚な袖ヶ浦が、わずか200年弱程度で、こんなことになってしまっていたんですねえ。さらに、いまは県名にもなっている神奈川の中心が、横浜ではなく、神奈川宿のあたりだったということもわかりましたね。
東海道はここから、富士山方面に向かって左にカーブし、浅間下を通り、保土ヶ谷を目指します。

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