06 戸塚 元甼別道

日本語版

この画は、戸塚宿の入口あたり、吉田橋の脇にある旅籠の様子を描いたものです。

保土ヶ谷宿から、戸塚宿までは、本陣間で約8.8kmあります。
保土ヶ谷宿はしばらく国道一号を通り、狩場の手前ぐらいで、右側に逸れて小道になって権太坂を上がっていきます。

この権太坂はとても眺めのいいところで、頂上の境木から見る神奈川の海は最高だと、風土記や旅行記などでは絶賛されています。

権太坂を過ぎると、「境木立場」を越え、焼餅坂を下りると、品濃一里塚を越えます。そこからまた少し坂を登り、その一番高いところで、今の環状二号の4車線道路の上を歩道橋で跨ぐことになります。

歩道橋を越えると、長い長い品濃坂を下り国道一号線方面に向かいます。

国道一号線と合流し、線路と一緒に進んでいくと、大山道との追分にさしかかります。右に行くと、長後、用田を経て、伊勢原方面に行くことができますが、今は陸橋で、最初にJRの線路を越えるようになっています。

やがて東海道は、広大なブリジストン横浜工場を越えていくと、戸塚宿の東の端、江戸見附を横目に見て、柏尾川にぶつかります。ここに架かる吉田大橋が、広重が描いた戸塚宿の景色になります。
ここは鎌倉道との追分にもなっており、左に行くと笠間、大船を経て、鎌倉建長寺に行くことができます。

橋を渡り道なり左に進むと戸塚駅に突き当たりますが、その手前が戸塚宿の問屋場でした。今はこの先は歩いて行けず、エレベータと歩道橋で線路を越えることになります。

線路を超えると再び一号線と合流し、戸塚宿の二つの本陣と脇本陣を過ぎて、藤澤宿方面に向かいます。

日本橋からの広域の地図をご覧ください。歌にもなっている、「御江戸日本橋七つ立ち」、つまり夜明け前、午前4時前に日本橋を出るとちょうど、この戸塚あたりで日が暮れる距離だったと言われています。江戸から約40キロ、江戸時代は、この距離を一日で歩けるぐらい、江戸の人は健脚だったんですねえ。

さて今度は、保土ヶ谷から藤澤まで見渡せる地図をご覧ください。
保土ヶ谷宿から、藤澤宿は14キロほどの距離があり、戸塚宿はそのちょうど中間地点にありました。
戸塚宿は全長約2.2kmで、人口約3,000人、一般民家600軒、旅籠70軒の少し小さめでしたが、相模では、小田原に次ぐ規模の宿場でした。しかし、最初のころは、この長い藤澤宿までの間の宿扱いでした。また、ここは、南北、共に急坂に囲まれた場所で、鎌倉道の追分でもありました。

さらに江戸から一日歩いて、ちょうど夕方に到達する場所でもあり、そんな理由から徐々に宿が増えていきました。藤沢宿と保土ヶ谷宿は慶長6年(1601年)に成立していたのですが、戸塚宿は、その3年後の1604年に、遅れて幕府公認の5番目の宿となりました。

これには当時、客を奪われることを恐れた藤沢宿の猛反対があったと伝わっています。旅人の宿泊にかかる当時の経済効果の大きさがわかりますね。そんなやりとりと戸塚から藤澤までを描いた、おもしろい広重の浮世絵がありますのでご覧ください。

広重が描いた画をよく見ると、ちょうど陽の暮れかかりで空が赤く遠景が少し暗く描かれています。中心にいる女性は、やっと着いたわよ、と言わんばかりに杖を持ったまま菅笠をはずそうとしています。その傍らでは、茶店の床几を使って、うまい具合に馬から下りようとしている旅人もいます。この馬は、軽尻馬(からじりうま)と呼ばれる、人ひとりと荷物を馬に乗せて駄賃をいただく、江戸時代の輸送手段のひとつでした。その馬子は手綱を取って馬を止めたまま、橋を渡ってくる僧の姿をした旅人の方を見ているのが、なんともユーモラスですねえ。ひょっとしたら、帰りはこの旅人を客にしようかなどと考えているのかもしれませんね。

左の「こめや」と書かれた旅籠の軒先には、大山講中をはじめ、講の木札がたくさん掲げられています。見えているだけでも5枚の講の名前が掲げられているので、大山詣や、伊勢参りなどの団体客がたびたび利用するかなりの繁盛旅籠だったようですね。しかし、この旅籠の女中は転びそうになっている、馬から降りる客をよそ目に、手を貸す気はないのか左手を懐にしまっています。個人客だからなのでしょうか、これはこれで面白いですね。この橋の手前には灯籠が立っており、その下に「左かまくら道」という道標の石柱が見えています。

旅籠の先に見えているのは、現在の戸塚町の山で、箱根駅伝の坂登りで有名な、戸塚警察の山に通じている高まりですね。その手前の田んぼは現在の戸塚駅あたりで、高いビルが林立している場所です。
この画はほぼ、初摺りに近いものですが、この戸塚には変わり図があります。

変わり図は、全体に夕方と言うより、夜のような感じで、初摺りでは馬から下りていた旅人が、馬に乗り込もうとしています。左奥に見えていた山がなくなり、旅籠には縦格子のある壁ができています。民家の屋根も塗り残したかのように白くなっています。

隷書版は、戸塚宿の西の端、上方見附の先にある、大坂と呼ばれる、松と楓が並木になっている急坂を描いています。この頂上からは、富士山がとてもきれい見え、名所になっていました。

行書版は、その大坂の上の方から戸塚宿を見下ろすような画になっています。今の戸塚警察署の東側あたりですね。奥の山は、戸塚の地名の由来にもなった、冨塚古墳(とみつかこふん)や冨塚八幡神社(とみづかはちまんじんじゃ)の山を誇張して描いています。

狂歌版は、宿の終わりである上方見附あたりから戸塚宿を見ている画になっています。ここはもう、急坂を下りてしまったあたりですね。

実際にここに行ってみると、「こめや」という旅籠はなくなり、駐車場になっていました。吉田橋は、吉田大橋と名前を変え、両サイドに歩道のある2車線の道路になっています。この道路は、橋を渡るとトンネルでJRの線路をくぐっていきます。東海道は左側道を行き、右にカーブしながら戸塚駅に突き当たります。

もう少し広重の画に近いアングルまで寄ってみました。この橋手前を左に行くと鎌倉道となり、現在でも柏尾川に沿って大船方面に行くことができます。

これが左に曲がった先、鎌倉方面に向かう道の景色です。

これは橋の上から保土ヶ谷方面を見た景色です。この柏尾川は、春になると桜の並木道となり、とてもきれいな市民の憩いの場所となっています。

大正7年に発行された本に載っている吉田橋です。灯籠や道標はないものの、この頃はほぼ、廣重の描いた世界がそのまま残っていたようですね。

これは、隷書版や行書版、狂歌入りに描かれた京方見附あたりから大坂を見た景色です。今は崩されてなだらかになっていますが、江戸時代は左に松の木、右に楓が植えられて長く急な上り坂が続いていました。

吉田大橋をGoogleMAPのストリートビューで、上から見た景色です。東海道をオレンジ色にして描き入れてみました。オレンジ色が消えてしまうあたりが、急坂だった場所で、今はその右側が、箱根駅伝で有名な戸塚警察署になっています。
東海道はこの先、その戸塚警察の東側を通り、原宿村、影取村を越えて、江の島方向を目指しながら、藤澤宿に向かっていきます。

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