箱根と言えば、何度もこの画が様々なところで引用されて、難所箱根の代名詞のようになっていますが、箱根の山々と、左に芦ノ湖、そして奥に富士山が描かれています。
箱根宿は、小田原宿から約17km弱ですが、標高差が約800mあり、その9割が上り坂で、湯本からは息の上がる上り坂になります。
これは、小田原城天守から見た、箱根方面の景色です。正面の山が駒ヶ岳で、広重が箱根宿の画で、迫り上がるように描いた山です。よくみるとロープウエイの頂上駅も見えています。これからそこまで行くのか、という気分になりますね。
東海道は、小田原宿から箱根湯本まで、早川の左岸に沿って西に向かいます。途中、小田原厚木道路をくぐるあたりで、小道に入り、風祭の一里塚を越えます。
再び一号線に合流して、箱根湯本駅の手前で、橋を渡り早川を越え湯本の街に入ります。ここからは、本格的な坂になります。
箱根茶屋あたりからは、民家も少なくなって、見るからに山道となっていきます。
間の宿でもある畑宿を越えて、箱根一里塚あたりからは、東海道は本格的な石畳の道になります。
有名な甘酒茶屋の裏を抜け、於玉坂をいくと、一号線の車道と別れを告げ、今は、ハイキングコースになっている、本格的な昔の東海道に入っていきます。
再び一号線と交わる頃には下り坂になっていて、この先あたりが、広重が描いた湖水図の舞台となります。
このあたりでは今でも、こんな石でできた東海道を体験することができます。
芦ノ湖畔に出ると東海道は南下し、今も残る杉並木を抜けて、低めの丘を越えると箱根の関所入口となります。
現在では、その関所が復元され、観光地になっていてます。
江戸防衛のための箱根の関所は、「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られていましたが、新居関と比べると、箱根の関所は比較的緩かったようですね。
箱根の関所は、この入口を入っていくのですが、そのまま左にまっすぐ行くと本陣のあった、箱根宿の中心部になります。今は、箱根駅伝の往路のゴールといった方が有名ですね。
ここで当時の道路状況を記した「れきちず」をご覧ください。この界隈には箱根の関所を中心として根府川・仙石原・矢倉沢をはじめ6か所に関所が設置されていました。地図の中の赤い三角マークですね。こうして見ると東から西へ向かう道は、東海道以外にも様々な道があったことがわかりますね。
実は、平安時代の物語、紀行、和歌などを見ると、ほとんどが今の246号線である、足柄道を越えた記録であり、今のような箱根を越えた記録はきわめて稀でした。緑色の線が足柄道です。
それが、富士山の噴火を経て平安時代の中頃から、塔ノ澤から今の駅伝コースをたどり、芦之湯経由で上るコースや、湯本から登って芦ノ湖に出るコースが主流となり、芦ノ湖南岸の箱根宿が大変栄えるようになっていきました。紺色の線は東海道です。
箱根の温泉開湯は奈良時代に遡るのですが、江戸時代以前までは、武士などの傷を癒す目的が温泉の主目的でした。しかし、東海道開通と同時に、観光地としてにわかに脚光を浴びたのがこの箱根の温泉群でした。特に箱根七湯は人気で、広重も「箱根七湯図會」として7枚の画に残しています。徳川家光、徳川綱吉の時代には、箱根の湯が将軍への献上湯として、度々使われていました。
当時の温泉番付でも、箱根七湯のうち、二つは前頭になっています。この赤い枠で囲まれた温泉場です。芦之湯と湯本は、当時結構な人気があったということです。それにしてもこの温泉番付って、おもしろいですねえ。
江戸時代にこのあたりの鳥瞰図として描かれた絵図をご覧ください。左が箱根神社、右上端が箱根宿で、紺色の道が東海道です。
江戸時代になると慶長9年(1604年)に正式に新しい東海道が整備され、箱根宿が大発展を遂げることになります。その実、東海道は険しい箱根山を江戸防衛の要として、三島側の西坂は敵を発見しやすい尾根道、小田原側の東坂は外敵を迎撃しやすい谷筋に経路がとられたといわれています。
1880年頃撮られた、箱根峠から見た箱根宿をご覧ください。箱根宿は、江戸時代後期には、問屋場2軒、本陣6軒、脇本陣1軒、旅籠の数は36軒あったとされています。この繁栄には、江戸時代の公道ですから大名はどうしてもここを通らざるを得なかった、という事情もあったようです。
ただ、このコースは、ひとたび雨や雪などが降ると、旅人はすねまで泥につかるありさまで、歩くのがたいへん困難でした。そこで幕府は、延宝8年(1680年)公金1400両あまりをかけて、箱根峠から三島宿に至る、約10kmを石畳の道としました。
また、今残っている箱根峠から小田原宿への石畳については詳しいことはわかっていませんが、これも同時期に整備されたといわれています。
実際に広重の画を見ていきましょう。
真ん中のカラフルな山は箱根といわれている山で、おそらく駒ヶ岳をかなり強調して描いたのではないかと言われています。
その左に富士山が白く描かれ、その下に紺色で芦ノ湖が描かれています。湖水の右端あたりに描かれているのは箱根神社で、この少し手前が元箱根になります。
山の手前を斜めに下りてきているのが、江戸からやって来た大名行列で、この道が東海道で、その一番奥に描かれた茶色の山たちが二子山ではないかと言われています。
私は、このシリーズの中で、この画が一番好きです。面白いのは、広重がありもしない高さのキュビズム風の山を真ん中に据えて、全体でバランスをとっていることです。それでいて絵として完成されているので、素晴らしいですね。
隷書版は、東海道のほの暗い石畳の道を松明を持って登っていく旅人を描いています。夜に箱根を越えるということが実際に行われていたようですね。
行書版は、箱根峠にさしかかった旅人を描いています。三島側からは、天秤棒を担いだ人が二人登ってきていますね。右側には、国境を示す棒状の案内板も描かれています。
狂歌入りは、やはり松明を持った先導に、駕籠に乗った旅人が二組、ついていく姿が描かれています。今にも、エッサ、ホイサ、というかけ声が聞こえてきそうですね。
北斎も富嶽三十六景で、湖水という題名で、富士山を描いています。こちらはとてもわかりやすく、富士山と芦ノ湖、右に箱根神社、その後に丸い形の駒ヶ岳が描かれています。
大正7年頃に撮られた写真をご覧ください。何となく広重の雰囲気を捉えている感じもしますが、この写真がどこから取られたのかは分かっていません。しかし、解説を読むとやはり、右側の山は駒ヶ岳だろう、ということのようです。
実際にここに行ってきました。右側が駒ヶ岳ですが、東海道も湖水も見えていません。
視線を左に振ると、湖水は見えていますが、駒ヶ岳が全く見えていません。箱根神社の赤い鳥居がわずかに見えています。富士山も山影で見えていません。
そこで、ほぼこの位置の上空からGoogleストリートビューで、実際の位置関係をみてみました。富士山と箱根神社がこの位置で見えていて、下に東海道がある位置です。広重は、すぐ目の前の駒ヶ岳を大きく盛り上げて、「箱根の山は天下の嶮」らしく脚色したようですね。もっともこの歌詞の「箱根八里」の「中学唱歌」は、明治になってからのものですので、作詞家の鳥居忱(とりいまこと)は、広重の画を見て、イメージして作ったのかもしれませんね。
これはその、ケーブルカーのある駒ヶ岳上空あたりから東海道を見たものです。それに東海道をオレンジ色で表してみました。左から来た東海道は芦ノ湖の畔に出ると再び杉並木を入って、関所を経由して箱根宿に至ります。
その先は、大きく迂回しながら箱根峠を越えて三島方面に向かいます。この箱根峠は当時、相模と伊豆の国境になっていました。
箱根は、江戸幕府のさまざまな思惑が交錯して発展し、今では一大観光地となりました。現在では湖面に海賊船が行き交い、お正月には駅伝で盛り上がり、インバウンドの客があまた押し寄せて、湖畔の街はさながらパッチワークのような状況になっています。
今の箱根は、どことなく廣重が描いた湖水図に近くなってきた気がしませんか。
最後にPhotoshopと生成AIで作った、今の湖水図をご覧ください。ウソですが。



コメント