35 吉田 豊川ノ橋

日本語版

これは、江戸時代なら誰でも知っていた、豊川にかかる大きな橋を、吉田城越しに描いた画です。

二川宿から吉田宿までは、約5.9kmで、吉田宿とは現在の豊橋のことですね。

東海道は、二川宿を出ると今のJR二川駅を通り過ぎ、立岩街道を横切り、火打坂を登っていきます。

坂を登って岩屋観音を回り込むように進み、江戸時代ならやがて松並木が現れましたが、今は名残の松と呼ばれる一本松だけが残されています。

柳生川を越えると国道一号線に合流するのですが、その合流点が飯村一里塚となっていました。

東八町の交差点からは城下町らしい東惣門があり、道が門に沿って細かく蛇行し、ここから吉田宿となります。

東海道は吉田宿の西端である西惣門を過ぎ、二回ほど曲がると豊川に突き当たります。現在ここには「とよばし」がありますが、江戸時代に廣重が描いた橋は、ここから少し下流にありました。

広重の画に描かれている橋は現在の城のすぐ脇にかかる吉田大橋ではなく、その下流にある現在の「とよばし」のさらに下流200mほどの場所にありました。この橋は当時「豊川ノ橋」ではなく、豊川橋とか吉田橋と呼ばれ、長さは120間、約220mあり幕府が管理するとても大きな橋で、東海道の三大名橋と呼ばれていました。

明治40年の地図を被せてみます。現在の吉田大橋の場所には橋ではなく、「関屋の船着き場」がありました。吉田大橋は1959年に架けられました。

1580年池田輝政が城主だった頃には、豊川は今橋川(いまはしがわ)と呼ばれ、吉田城も今橋城と呼ばれていました。その池田輝政が、もともとあった今橋川に架けた土橋の橋を木橋に架け替え、吉田大橋と名付けました。

江戸時代になり、東海道が整備され、広重が副題を「豊川ノ橋」として描いたのは、この吉田大橋です。広重の視点を赤いグラデーションで入れてみました。

明治時代になるとすこし上流に橋を架け替えて、名前を「とよはし」と変更しました。地図ではオレンジ色の線ですね。

さらに、昭和に入ってから城のすぐ脇の「関屋の船着き場」に、今の吉田大橋を架けました。ただ、今度は市の名前と橋の名前を区別するため、オレンジ色の橋名を(とよばし)と呼ぶようになりました。

なんともややこしいこの名称の変遷ですが、豊橋はその後、吉田藩の城下町として、豊川の船運で栄えた湊町として、最終的には新幹線の止まる駅として大きく発展していきました。

ここからは、広重の画を詳しくご覧ください。右には吉田城、左には豊川橋が描かれています。
その橋にはいま、大名行列が渡っている最中で、たくさんの人が蟻のように描かれています。川には二艘の船が描かれ、川の手前には三つの大きな船着き場がありました。そのひとつからは直接伊勢まで行ける船も出ていて、ここから海路をとり伊勢に向かう旅人も多かったようです。豊川は、実際にはもう少し蛇行していました。

吉田城は画の中では工事中で、壁の漆喰を塗っている職人が描かれています。その職人の一人は、足場の最上部に上り遠くの景色を眺めて感動している様子です。このあたりの広重の扱いは面白いですねえ。この画が描かれた頃、吉田城は松平伊豆守、七万石の居城でした。
吉田宿は人馬継立の問屋場もあり、城下町と吉田湊の船町を合わせた宿場として、本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠は65軒、人口は7,000人ほどだったといわれています。

隷書版は、城内にあった吉田神社の天王祭を描いています。神輿の先導として神楽が奉納され、悪霊を追い払う役割がありました。前夜祭には立物花火(たてものはなび)が行われていましたが、これがこの地方で広く行われている、手筒花火の原型ではないかとも言われています。

行書版では、吉田橋から見た吉田城を描いていますが、城はこんなに近くは見えませんでした。また、城の後ろに描かれた山は、弓張山地に連なる360mほどの石巻山だと思われますが、こんなに近く、大きくは見えず、もっと左に見切れていたはずです。

狂歌入りは、やはり吉田橋から吉田城と豊川を描いています。人と物流の要となっていた、吉田湊の賑わいがよく分かりますね。一時かなりの旅人が、吉田船町からの参宮船を利用して伊勢まで行っていました。そこで、1797年には七里の渡しや三里の渡しに関わる宮宿と佐屋宿から、参宮船の差し止めの依頼が出されていましたが、評定所から却下されてしまったという記録が残っています。また、やはり橋と城との距離が近すぎますが、行書版に登場する、お城の後ろにあった山はこの時点ではまだありませんね。

北斎の五拾三次は、名物の火口(ほくち)とおかめの面を描いています。火口(ほくち)は、火打石の火花を火種に移す当時の必需品で、吉田宿ではこの海老屋を含めて六軒ほどの火口屋があり、吉田宿の名物となっていました。
また、おかめの面は大変多かった、飯盛女を意味しているようです。「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖で」などの俗謡が、当時広く知られていました。この「鹿の子」とは、繁殖力の強い鹿から、子孫繁栄の洒落がかかっていたようですね。

実際にここに行ってきました。今はお城には登れませんが、廣重が描いた一番近い景色が、この豊橋市役所、13階展望フロアからの景色です。遠くの橋が現在のとよばしで、廣重が描いた橋はもう少し奥側の下流に架かっていました。

Googleストリートビューも見てみました。ちょっと視点は高過ぎるものの、城から見た景色はこんなだったのではないでしょうか。

この写真をすこし加工して、吉田大橋を消し、「とよばし」を少し下流側の、当時の豊川橋の位置に移してみました。こうして見ると分かりますが、吉田城と廣重が画にした「豊川ノ橋」は、かなり離れていたことが分かりますね。

一緒にちょっとアングルは異なりますが、吉田城も入れてみます。橋までのこの距離感を勘違いしていた廣重は、やはり吉田宿も実際に見てはいないようですね。

さて、Googleストリートビューで、現在の「とよばし」上空あたりから、この先を見て東海道をオレンジ色にしてみました。豊川を渡った東海道は、蒲郡ではなく、御油方面に向かいます。なお、この一番手前の「とよばし」と呼ばれるようになってしまった橋は、国交省の書類上の登録では「とよはし」だそうです。

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