この画は、大井川の川越し風景を、嶋田宿側から見た見た画です。
まず最初に、wikimediaの地図で、大井川をご覧ください。
この青い線で表した大井川は、静岡、長野、山梨の県境にある、標高3,189mの間ノ岳(あいのたけ)に端を発し、南アルプスの険しい山岳地帯を蛇行するように流れていきます。1,280平方kmの全流域面積に降った雨が、島田あたりの扇状地に一気に集まり、海に注ぎます。そのため、江戸時代にはこの川を東西に越えるのが、東海道随一の困難とされていました。
藤枝宿から嶋田宿までは約8.7km、さらに大井川まではもう2kmほどありました。
藤枝宿を出て、志太集落を越えていくと青木あたりで田沼街道との追分になっていました。左に行くと御前崎、相良藩に行ける街道です。田沼意次のお膝元ですね。
東海道はこの先、JR東海道線と並行に進み、東光寺谷川(とうこうじやがわ)を渡ります。
さらに進むと大津谷川(おおつやがわ)を渡り、嶋田宿の東見附を越え、嶋田宿に入って行きます。
地図を拡大します。廣重は東海道五十三次で、嶋田宿を「大井川駿岸」、金谷宿を「大井川遠岸」として描きました。大井川の川越しを、東の駿河国と西の遠江国で、描き分けました。
現在、嶋田宿本陣を越えて、大井川に近くなるあたりでは、当時の川渡しの施設を再現した、エリアに到着します。ここでは、島田宿大井川川越遺跡(しまだしゅくおおいがわかわごしいせき)として、博物館や川会所、旅籠、川越しの再現オブジェなどを見ることができます。
堤防の上に出て見ると、対岸まではかなりの距離ですが、当時はここを歩いて渡っていました。
江戸時代は、対岸の金谷側でも同じような川越し施設がありましたが、現在は、案内板程度のものがあるぐらいです。
ここで国指定史跡になっている、島田宿大井川川越遺跡(しまだしゅくおおいがわかわごしいせき)をご覧ください。大井川は、江戸時代の記録では、川幅が約1.3km、平均水深が76cmあった、急流の大河川でした。
幕府は、この川に架橋や渡船を禁じていたため、増水すると、しばしば川止め、つまり通行禁止になっていました。そうなると、東海道の旅人は、嶋田宿か金谷宿に逗留して、渡れる状況になるまで待つしかありませんでした。大井川の川越が禁止されると、江戸から京都方面へ上る旅客が嶋田宿に足止めされ、この界隈の旅籠は、大変な賑わいを見せるときもあったといわれています。
これは復元された川会所です。1696年、幕府は大井川の島田と金谷に川会所を設置しました。川会所とは江戸の道中奉行の直轄として、毎日川の深さを計測して江戸に飛脚で報告し、川越賃料や渡しの順番決定などの運営業務にあたる場所でした。大井川の水深が1.5mを超えると全面的に川止めとなりました。
川越しは、専門職である川越人足が行い、島田と金谷にそれぞれ350人が常時いて、藩府直参の下級官吏であったため、安定した職業でもありました。これが江戸末期になると600人ぐらいずつに膨らんでいたそうです。
大井川を渡りたい旅人はまず、川札と呼ばれるチケットを川会所で購入します。川札1枚につき、1人の川越人足を雇うことができました。
その川札の値段は、毎朝測る大井川の深さと川幅によって定められ、川会所の前に値段が掲示されました。料金は、最も水位が浅い「股通し」と呼ばれる水量で川札1枚、四十八文でした。当時の職人給与で比較すると、現在の約2,400円ぐらいですね。
大井川の普段の水位は二尺五寸(約76cm)ですから、たいていは手張と呼ばれる補助の人をつけなければならなかったので、最低でも川札は二枚必要でした。
これは、嶋田側の土手から金谷側を見た現在の川の様子です。川越しのできる時間は、明六ッ~暮六ッ、午前六時頃から午後六時頃と決められていました。旅人は川会所で買った川札を川越人足に手渡してから、人足の肩に乗り、大井川を越しました。川札は防水のために油が染み込ませてあり、川越人足は旅人より渡された川札を髷や鉢巻に結びつけ、川越しをおこないました。その後川越人足は、その川札をもって川会所に行き、現金と交換します。
これは輦台と呼ばれる、人足4人で川越しをしてくれる様子を写真撮影できるオブジェです。もしこのような胸までの状態で、川を渡してもらうとすると、川札が最低6枚必要だったわけですから、現在の金額に換算すると2万円ぐらいになりますね。
これは大名などを駕籠ごと載せられる、大高欄輦台というものです。これは川札が32枚必要になりますので、とんでもない金額になります。この川越しが、この島田と金谷にとって、当時の一大産業だったことが分かりますね。
川止めが長くなると、逗留する人が増えて、島田は江戸や大坂と見紛うばかりの賑わいになっていました。さらに、長逗留で着物を質に入れて宿代にする旅人が多かったため、島田宿では着物や帯の流通が盛んだったそうです。今でも島田市内で呉服店を営む店主からおもしろいお話を伺いました。
島田の街は、300年近く川越しで潤ってきたため、経済的感覚が少しずれて来たそうです。危機感がなく、率先して何か新しいことを始めよう、という感覚が街全体にない、とその主人は分析していました。この川越しの影響が現代にまで続いているんですねえ。
廣重は、この川越しを少し俯瞰で、実に細かく描いています。右側が嶋田宿側で、左の先が金谷宿ですが、広さを表すためか、向こう岸が描かれていません。
先頭を渡り始めているのは、大名の一行ですね。手前の岸では、羽織を着た様々な出で立ちの人が、運んでくれる人足を待っています。さすが大名行列だけあって、とても荷物が多いのがわかりますね。画の中で裸で描かれているのは、ほぼ川越人足です。
その後を一般の旅人が、浅瀬を渡って最初の砂洲にさしかかっています。その右に黒く描かれているのは蛇籠ですね。竹で編んだ篭に大きめの石を詰め込んだ、河川改修用の資材です。蛇籠と一緒に「川倉」も描かれていますねえ。蛇籠も川倉も、当時の暴れ川である大井川の川管理には、必須のものでした。
川倉とは、木で組まれた水防用の柵のようなもので、水流を弱め、決壊を防ぐものです。
多摩川の羽村の堰で再現されていた川倉とそれに乗った蛇籠をご覧ください。
隷書版では裕福な人たちの川越し風景を、金谷側から見た画を描いています。様々な川越しのやり方が描かれています。その先には富士山も見えていますね。
行書版も嶋田側と富士山を見ている画です。中洲までは簡易の橋が架けてあり、旅人はそこまで歩いて行くことができました。岸の奥には蛇籠があり、その手前には空の輦台が立てかけてありますねえ。
狂歌入りは、大名行列の川越しを、富士山と共に金谷側から描いています。さすがに大名行列の川越しには、たくさんの人足が関わっていますね。当時の参勤交代が膨大な予算を地方に落としていったことが分かりますね。
葛飾北斎の描いた冨嶽三十六景も、金谷側から川越しと富士山を描いていますが、一番奥に、嶋田側の川会所なども描かれています。広重ののんびりした画と違い、こちらの方は、リズミカルで躍動感のある川越しが描かれていますね。また、川岸の蛇籠の数がものすごい量になっているのが分かります。
実際ここに行ってみました。この写真は、今主流になっている水際まで行って金谷側を見た写真です。見ての通り、平和そうな流れに見えていますが、上流におびただしい数のダムがあったり、堤防も強化されています。しかし、江戸時代には、嶋田の宿そのものや、東海道までが、何度も大井川の氾濫被害を受けたという記録が残されています。
嶋田側から金谷方面を見た、Googleのストリートビューもご覧ください。オレンジ色で東海道も入れてみました。
江戸時代は川幅が1.3kmだったということですから、現在の河川敷も含めた、堤防から堤防より少し広いぐらいの間が、川幅の記録となっていたようです。
下流から見たGoogleのストリートビューもご覧ください。こちらの方が、広重の画のアングルに近いかもしれません。
江戸時代の大井川は、この川幅の間を流量に応じて好き勝手に流れを変えて、時には溢れだして、海に注いでいました。
従来、幕府が架橋を禁じたのは、江戸を守る防衛上の理由が主だとされていましたが、近年の研究では、江戸時代以前の大井川は水量が多く流れも急だったため、どうやら架橋や渡船には向かなかったようです。大井川は、コントロールの効かないない巨大な暴れ川だったわけですね。
しかし一方で、天保9年(1838年)には、この写真あたりから河口部まで、中洲を渡り歩く仮橋が6か所も架かっており、24文から40文という安い通行料でこっそり旅人を渡していた記録もあります。
いずれにしても、この遙か南アルプスから流れてくる暴れ川が、この地域に「川越し」という、江戸時代の一大産業を生み、この川の両岸に、多大な経済効果をもたらしていました。廣重のこの画を見ても、その繁盛ぶりがわかりますね。



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