東海道五拾三次之内
金谷 大井川遠岸
かなや おおいがわえんがん
保永堂版 歌川広重 画
メトロポリタン美術館 蔵
大井川の川越し風景を、大井川の中心あたりから金谷宿側の岸を見た画です。画の右側奥が金谷で左下が嶋田方面になります。
嶋田宿から金谷宿までは、約3.9kmほどの道のりなのですが、その1/3ほどを大井川が占めています。広重の画は、この大井川の中洲上空あたりから金谷方面を見ています。それを赤いグラデーションで入れてみました。
東海道五十三次は嶋田宿を「大井川駿岸」、金谷宿を「大井川遠岸」という副題で描いています。東海道は嶋田宿を出て大井川に近くなるあたりでは、当時の川越しの施設を再現した、島田宿大井川川越遺跡(しまだしゅくおおいがわかわごしいせき)があります。ここでは、博物館や川会所、川越しの再現オブジェなどで、当時の川越しの様子を見ることができます。
江戸時代、川には橋が架かっていませんから、ここでお金を払って、川越人足を雇って、この大井川を渡してもらう必要がありました。当時の大井川の川幅は、約1.3kmほどで、一番安い川越し方法は、川越人足に肩車をしてもらい渡る方法でした。
金谷側に渡ると、当時は嶋田側と同じように川越しの施設が立ち並んでいましたが、今は、川の手前に「金谷宿川越し場跡」という、小さな施設があるだけです。
金谷側に渡ってからしばらく行くと、大代川を渡ります。今、痕跡は残っていませんが、だいたいこのあたりが、金谷宿の東の端でした。
広重の画を詳しく見ていきましょう。広重が描いた金谷宿は、嶋田宿の画と比べて、出てくる人間の数が少し少ないですねえ。しかもこちらは大名行列だけを描いています。未だ川の中にいるお殿様は、大高欄輦台(だいこうらんれんだい)と呼ばれる四方に手すりの付いた24人で担ぐ、一番豪華な輦台に駕籠ごと乗っています。荷物も6人で持っていますから、かなりの重量だったようですね。
中洲には毛槍と先箱を持った先頭の家来が既に歩き出し、その手前には、肩車で川越ししたで侍が下りていますね。その先には4人で担がれた平輦台に乗った武家はそのまま、中洲を運ばれていきます。その先は平瀬なのか、小さな橋が架けられ、その上でも輦台のまま乗せられている人もいます。
向こう岸の右には、完全に仕事を終え、輦台の脇でくつろいでいる、ふんどし姿の川越人足が面白いですねえ。霞雲の先、山に囲まれた民家の屋根が少し見えていますが、これが金谷宿の中心部で、本陣があるあたりです。左奥のグレーの高い山は、地図上では存在していません。
これが後摺りですが、金谷宿が明るく描かれて、とてもわかりやすくやすいですねえ。
よく見ると、途中の橋の塗り忘れも修正されていますね。それに灰色だった川原が黄色く陽が当たっている感じで塗り替えられています。
初摺りに戻って、比べてみるとよく分かりますね。
さて、大井川の川越しは、その日の水量と川幅によって料金が違ってきます。川会所の役人が毎朝川の様子を見て、川会所の入口に料金が張り出されます。水位が人足のどの位置にあるかで金額が変わる、川札の金額の違いをご覧ください。
大井川の平均水位は、約76cmでしたからたいていは「帯下通し」以上となり、手張と呼ばれる補助の人が必要になるので、川札は2枚必要でした。そうなると一番安い金額の肩車スタイルで渡してもらうのに、最低百四文、今の金額で約5200円ぐらいが必要だということになります。
広重が三連作で描いた東海道の「大井川の図」をご覧ください。輦台に乗った様々な人が描かれています。この川でどのようなことが行われていたかをつぶさに見ることができます。
川札と呼ばれるチケットを川会所で購入し、川札1枚につき、1人の川越人足を雇うことができましたが、輦台に乗るには、台札も一枚必要で、これが川札二枚の料金でした。ですので、画の左の平輦台に乗っている女性は、手張と呼ばれる補助の人も含めると川札が7枚分必要だったことがわかります。
川の水量がこの状態だと川札一枚が94文なので、当時の職人給与で比較すると、現在の価値で約4,700円になり、それが7枚ですから、最低32,900円かかっていたことになります。この川越しは、この地域にとって相当な経済効果があったことがわかりますね。
画の富士山手前に描かれている、大高欄輦台(だいこうらんれんだい)と呼ばれる、大名や公家が使用した最も高価な輦台の実物が、島田宿大井川川越遺跡に展示されていたので、ご覧ください。
「大井川の図」の状況だと川越人足24人と補助の手張4人、それに台札が16枚必要なので、川札が56枚分必要でした。現在の金額だと、263,200円と言うことになります。
隷書版は、金谷宿を過ぎた、難所と言われた金谷坂から、金谷宿越しに大井川方面を見返しています。
行書版は、同じ川越しを、大名行列と力士を運ぶ画で見せてくれています。力士は、かなり重かったと見えて、大人数で運んでいるのが、面白いですねえ。
狂歌入りは大名行列の川越し風景を描いています。予算があったのか、たくさんの輦台が散らかっている様が、面白いですねえ。川会所では、その日の川越しの順番も決める立場にあったのですが、大名行列が最優先だったようです。
実際にここに行ってきました。これは広重の視点が川の真ん中の上空なので、今の大井川橋の上から金谷方面を見た写真です。ちょうど広重の画と似た感じで撮ることができました。右側の集落が金谷宿で、左端に小さく見える階段あたりに、川越しを終えて土手に上る道がありました。
この土手に上がり嶋田方面を振り返った写真がこれです。大井川もさることながら、川越しに富士山が見えているのは、まさに廣重の描いた「大井川の図」三連作の川越しの景色と一緒ですね。
土手を下りて進むと、「金谷宿川越し場跡」という施設があり、ここに明治になって、川越人足を救った立役者の像が建っています。
大井川は、明治3年(1870年)に一大産業であった川越し制度が廃止され、大井川の川越人足、約1300人が路頭に迷うこととなりました。
当時、横浜開港による茶の輸出取引を考えていた明治政府は、一部の旧幕臣などを中心に茶畑の開墾をはじめさせていました。そこで立ち上がったのが、この仲田源蔵です。自ら髷を切り落とし、土地を売って資金作りに奔走し、覚悟を決めて明治政府へ向かい、大量失業した、川越人足の救済を直訴しました。
静岡が、今のようなお茶の産地になった理由のひとつが、この川越人足が大量にお茶栽培に転職したからだとも言われています。
この先をみたGooglemapストリートビューに、東海道をオレンジ色にして描き入れてみました。
激動の時代をくぐり抜けた、金谷宿から先には、ずっと山が連なっているのが分かりますね。当時の旅人には、やっと渡った大井川の川越しの次に、ぬかるんだ山越えが待っていました。



コメント