この画は、東海道から茶屋と、冬枯れの田んぼ越しに浜松城を見ている画です。
見附宿から濵松宿までは、約16kmほどなのですが、天竜川の川縁からの距離は、半分の8km弱ぐらいです。
東海道は、天竜川を渡り、中野町村を西に行き、ほどなく姫街道との追分に達します。今では小さな路地になっていますが、右に曲がると浜名湖の北、気賀方面に行く姫街道でした。
そこからしばらく進むと馬込の一里塚があり、馬込川を渡れば、浜松宿でした。
浜松宿に入って東海道は、浜松城が見える連尺町で大きく左、つまり海岸方面に曲がりました。この連尺町を真っ直ぐに進むと、浜松城の西を抜けて北上し、姫街道として浜名湖の北を行くことができました。
ここで、その姫街道を見るために、当時の道を詳しく描いた「れきちず」を拡大してご覧ください。当時は、東海道ではなく浜名湖を迂回して北側から西に行く、姫街道を利用していた旅人が多かった、と言われています。
その理由をもう少しわかりやすい地図でご確認ください。Googlemapに、紺色の東海道と緑色の姫街道を描き入れたものです。
姫街道は、浜名湖の北を通って短距離で御油まで抜けることができました。また、「入鉄砲に出女」と言われる検問の厳しい「荒井の関」通過を回避できたため、女性に人気のコースとなり、姫街道と呼ばれていました。
南下した東海道は濵松宿を抜け、東海道線と新幹線をくぐり、やがて西に方向を変え、JR高塚駅付近に達します。このあたりの海岸寄りには六所神社があり、その門前には、現在、二代目の音羽の松が植わっています。この音羽の松が広重の描いた、「冬枯ノ圖」に大きく関係してきます。
その「冬枯ノ圖」を詳しく見ていきましょう。
一本の杉の木の周りにいる村人たちは、煙管をくわえたり背中をだしたり、各が自由に暖をとっている、ごく日常の風景を描いています。もうもうと立ち上る煙の元を、少し恨めしそうに眺める道中合羽と編み笠の旅人もいい味を出しています。その右横には、子守り姿の女性が枯れ枝を集めています。これはこのあたりでは、ありきたりの冬のシーンだったんでしょうねえ。
奥には稲を刈りとられた田んぼが広がり、左側には稲わらが積み上げられた先に建物が描かれていますが、鳥居が小さく描かれているので濱松八幡だと思われます。右には松の木が数本描かれていて、看板のような案内板が設置されているところから、有名な「ざざんざの松」だと思われます。一番奥には、小さく浜松城と宿場町も描かれていますね。
これは後摺りですが、冬枯れといいながらも画の下の方が、鮮やかな緑色になっていたり、八幡宮の森が黒くなったりしています。ただ浜松城に窓がついたり、屋根もはっきり色分けされて訂正されている部分も見受けられます。
こうして見ると初摺りは、どうやら広重の摺り指定と異なる版木作りが行われていたようです。
広重は隷書版では、「ざざんざの松」を描いています。地元の村人二人が通る横に、遠く海を見つめる、すこしあやしげな僧侶と、二本の大きな松の木が描かれています。
この「ざざんざの松」はもともと、南区小沢渡町(こざわたりちょう)にあった許部神社(こべじんじゃ)の松が起源だったといわれています。現在のJR高塚駅の海岸よりあたりです。
許部神社(こべじんじゃ)の松は最初、「音羽の松」とよばれ、江戸時代には枝葉が伸びて二十間(約36m)の大木となり、南の遠州灘を航行する船が、海から見た目印にしたといわれていました。しかし、江戸時代の終わりころから樹勢が衰え明治10年頃には枯れてしまいました。現在、二代目の「音羽の松」が小沢渡町、六所神社の入口に植えてあります。
広重は行書版でも、旅人ともに「ざざんざの松」を描いています。旅人が興味深げにじっくり松を眺めている様子を見ると、この松は、世の中によく知れ渡っていた松だったようですね。
そもそも「ざざんざの松」は、1432年に室町六代将軍の足利義教(あしかがよしのり)が富士山を見ようとこのあたりに立ち寄った際、この松の下で宴を開き「浜松の音はざざんざ」と謡い、以後この松を「ざざんざの松」と呼ぶようになったといわれています。
徳川家康が、当時の曳馬(ひくま)の里にあった曳馬城(ひくまじょう)を浜松城に改名し、今の濱松という地名のもとを作ったのも、浜にこの松があったからだともされています。
狂歌入りは、濵松城と東海道らしい濵松の宿場の様子を描いています。
葛飾北斎の東海道・濵松も、「ざざんざの松」を描いていますが、旅人や出茶屋と比較すると、この松は相当大きな木だったようですね。また、北斎も画にするぐらい、この松は、このあたりのシンボル的存在だったようですね。
これは現在の濱松八幡宮です。
もうひとつ「ざざんざの松」の伝承があります。天慶元年(938年)、「音羽の松」があった許部神社(こべじんじゃ)が濱松八幡宮として現在の場所に遷座した際、白狐が松の苗木を携えてこの地に来て、それを植えた松が見事に育ち「ざざんざの松」と、呼ぶようになったと言われています。
こちらの「ざざんざの松」は、八幡宮から東へ約百メートルほど離れた野口村の森と呼ばれていた場所にありました。ここには、当時30本ほどの松が群生していて、大正の頃でも15~16本の松が残されていました。しかしそれも昭和20年の空襲で全て焼けてしまい、その後再び、八幡宮境内に松が植えられました。
広重が描いた「冬枯ノ圖」に出てくる「ざざんざの松」はどうやらこちらの野口村の森にあった松のようです。
さて、今回は描かれた条件を満たす場所探してみました。まず地図をご覧ください。
左に濱松八幡宮、右に野口の森の「ざざんざの松」、その間から濱松宿とお城が見える場所を探しました。しかし、東海道にはありません。さらに、この条件を満たそうとすると、東海道から大きく北に外れてしまいます。
そこで、広重の視点であろう、と思われるだいたいの場所を赤いグラデーションで入れてみました。
実際にここに行ってきました。東海道を馬込川を渡ったあたりで、右折、北上し、野口町あたりから浜松城方向を見て撮影しました。どうやらこの「冬枯ノ圖」は広重の独創的なイメージが生んだ画のようです。
ですので、広重の視点がどこかというより、有名な「ざざんざの松」と、八幡宮と、浜松城、そこに当時の村人の暮らしを描き、「冬枯ノ圖」ということにしたようです。
この先のGoogleストリートビューもご覧ください。東海道をオレンジ色にして、広重の視点であろう場所も描き入れてみました。東海道は、浜松城の南を海側に曲がり、海にそって西へ向かい、舞坂宿を目指します。浜松城の先には佐鳴湖、その先にはいよいよ浜名湖も見えてきました。



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