この画は、平塚宿の西の端を過ぎたあたりで、たんぼの畦道越しに、高麗山と富士山を見た景色です。
藤沢宿から平塚宿の本陣までは、約13.7kmほどで、宿間としては結構な距離がありました。
東海道は、藤沢宿をでるとまず、引地川を渡ります。しばらく行くと、四ツ谷の一里塚があり、すぐその先には大山道の追分である、四ツ谷辻に達します。今の、辻堂駅北側あたりですが、この別れ道には不動堂と道案内が刻まれた石柱が設けられ、右に行くとすぐに大山詣の大きな鳥居がありました。
そのまま、左の東海道を進むと、今の茅ヶ崎駅の北側を通り、その先茅ヶ崎村を過ぎると、南湖で大きく右に曲がります。ここから先しばらくは東海道で二ヶ所だけの、京都に向かって左側に富士山が見える場所になります。
その先、東海道はまた西方向に方角を変え、相模川に突き当たります。昔は馬入川という名前で、ここには馬入の渡しがありました。対岸の馬入村の土地は少し高くなっていましたが、東側は、馬入川の氾濫源にもなっていて、民家も少なく肥沃な畑として利用されていました。今では、馬入橋ができ、正面に富士山が望めます。
そのまま、平塚駅を過ぎたあたりから平塚宿が始まり、ここに江戸見附がありました。ここを右に行くと平塚八幡があり、そのまま進むと大山道にも繋がっていました。
東海道平塚宿はとても小さく、国道一号線に合流するあたりが、東の端の上方見附でした。このあたりが広重の視点になります。当時はこの先は田んぼの畦道のようになっていたようです。そのまま、進んでいくと花水橋を渡り、化粧坂を登り大磯領になります。
この地図の、広重の視点に赤いグラデーションを入れておきます。
広重の画を詳しく見ていきましょう。
榜示杭が見えていることから、平塚宿の西のはずれであることがわかります。その先の道標の文字は読めませんが、場所からして中原道に行く案内のようです。左から二人目の旅人が、小さな橋を渡ろうとしています。これが花水川で、ちょうど川が高麗山にぶつかるあたりなので、その氾濫を利用した田んぼがあり、その中の畦道、つまり縄手道だったようです。真ん中の松の脇には、のんびり駕籠を担いでとぼとぼ歩く駕籠かきと、急いで走り去ろうとする飛脚が描かれています。この対比も、広重らしい情景描写ですね。
さて、この画に対して専門家の解説では、正面の丸い山が高麗山、富士山の右側のゴツゴツした姿の山が大山で、その下の松林が中原御殿跡地ではないかとなっています。しかし、それだと広重の画の角度が200度以上になってしまうので、なだらかではない大山と中原御殿説には、画角的にちょっと無理があるようです。
その証拠に花水橋の上から北側を見てみると、左に高麗山、奥になだらかな大山の姿がみえています。
隷書版を見てみると、高麗山が普通の山になっています。手前に家々があるので、平塚宿に入る手前を描いています。旅人は大名行列の家来たちで、平塚宿に向かっています。
行書版は、馬入の渡しを東から描いています。遠くの富士山を大きく描いているのは、見え方がよほど印象的だったのでしょうねえ。向こう岸がちょっと高くなっているのが分かります。
狂歌入りも馬入川の渡しと富士山を描いていますが、対岸の馬入村に上っていく道もしっかり描かれていますね。渡船の数もたくさんあったことが覗われます。
ここで7世紀頃の道の状態をご覧ください。この頃、律令制が確立され、近江国から美濃、飛騨、信濃を通り、上野、下野を抜けて東へ貫いて陸奥国・出羽国に至る、東山道が確立されていました。黄色い色の線です。その後、付属の道として武蔵国分寺脇に至る巨大道路、東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)が造られました。
東山道武蔵路は、オレンジ色の道ですね。黄色い四角は国府で、オレンジ色の丸は駅です。相模国の国府、大磯の北にある、夷参(いさま)は、現在の座間のことですね。
これが調査が進む国府の武蔵国分寺です。この金堂の後ろが本堂跡です。現在は一帯が遺跡公園のようになっています。
この道はさらに南下すると、東海道に繋がっていました。この、武蔵国を南北に貫く道路開発に大きく関わったのが、高麗山近くに上陸した、渡来人だと言われています。
ただ当時の東海道は見ての通り、相模から鎌倉を抜け三浦半島の先端に至り、東京湾を海路で横断していました。その後房総半島先端の安房に達し、上総・下総を経て常陸に至るのが当時の東海道の道筋でした。
その後、八世紀になってやっと、東海道は相模から武蔵をへて、現在の荒川・江戸川の河口部を横断して下総国に到達する道が開けていきました。このコースは主に、今の中原街道が使われていました。
この東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)の開発に関与した渡来人たちは、7世紀に滅亡し、日本に逃れてきた高句麗王族(こうくりおうぞく)の子孫、高麗若光(こまのじゃっこう)に率いられた人たちでした。日本に上陸後、しばらくは高麗山(こまやま)の麓に定住し、その後現在の埼玉県にあった高麗郡(こまぐん)に集められ、武蔵一帯の開発に乗り出しました。
実際に、高麗山の麓にある高来神社(たかくじんじゃ)でおこなわれる御船祭(おふねまつり)の木遣りには、高句麗の使者の若光が祖国滅亡後に東を目指し、大磯の浦に渡来し、船で上陸してこの高麗の地に住み、大陸の文化を伝えたという内容があるそうです。
実際にこの場所に行ってみました。高麗山すら全部見えないのが、ちょっと残念ですね。もちろん東海道は畦道どころか、国道一号線となって4車線の高規格道路になっています。
もうひとつ平塚市が推す、広重の視点候補がもう少し先に行った、このあたりです。左のずっと奥に見えているのが、今の花水橋です。
これは今の花水橋と高麗山です。当初、渡来人たち住んでいた高麗山は、今では頂上が湘南平の高麗山公園となっており、展望台からは、360度の展望が楽しめる名所になっています。
同じ場所を大正7年頃に撮った写真がありました。畦道とまでは言えませんが、当時はまだのどかな感じが残っていたようですね。
ここで、平塚宿上空からみたGoogleMAPストリートビューをご覧ください。そこに東海道を入れてこの地域全体をみてみます。東海道は畦道どころか、平らな場所にはことごとく建物が建てられています。この先、花水川を渡り高麗山を右手に見て進むと、大磯宿はすぐですね。
改めて広重の描いた景色を見てみると、広重にしか描けないそのまとめ方には凄さを感じます。この海坊主のような高麗山を見たら、実際にここに行ってみたくなりますよねえ。高句麗を追われてやって来た高麗若光(こまのじゃっこう)が、どんな気持ちで、この山の麓に暮らし、どうして日本の武蔵国を開発するに至ったのでしょうか。わたしはどうしても、そこに思いを馳せてしまいます。
この画に描かれている縄手道両側の田んぼも、最初は、高句麗からの渡来人たちが開発したのかも知れません。



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