この画はちょうど黄昏時に、狩野川の畔を沼津宿に向かっていく旅人たちを描いたものです。
三島宿から沼津宿までは約6km弱で、ほぼ緩やかな下り坂でした。
東海道は伊豆箱根鉄道の線路を越え、千貫樋を過ぎるともう三島宿の外で、ここからはゆっくりと沼津まで坂道を下ります。
秋葉神社の常夜灯を越えていくと、伏見の一里塚があり、さらに進むと国道一号線沼津バイパスを横切ります。このバイパスを少し左に行くと、富士山の雪解け水がこんこんと湧く、柿田川公園があります。
東海道は、沼津バイパス八幡(やはた)の信号を真っ直ぐ進み、長沢の松並木を通りながら、黄瀬川(きせがわ)を渡ります。当時は、この松並木と黄瀬川が沼津宿のひとつの目印になっていて、ここから先が、沼津藩領となっていました。
東海道は380号に合流すると直ぐに、右側からの矢倉沢往還と合流します。この矢倉沢往還は、箱根の北側を回り込む今の国道246号線ですね。東海道は大岡あたりでさらに細い道を左に入っていき、狩野川を左に見ながら進んでいきます。
東海道は今、堤防の右側、土手沿いに進んでいきます。写真にある黒瀬橋を越えていくと、広重が描いた「黄昏圖」の場所になります。
その場所を過ぎると再度380号に合流し、現在の三園橋を過ぎると大手町手前で左にそれて、南下していきます。江戸時代のこの場所は、既に沼津城内で右手に、沼津城の天守が見えていました。江戸時代のこのあたりは狩野川の水運を利用した港でもあり、沼津の水上交通の要でした。
広重の画を詳しく見ていきましょう。
少し暗くなった青空に大きな満月が登り始め、暮れ始めた狩野川や東海道に、少しだけ明るさを与えています。左にカーブした街道の先には、もう民家の建ち並ぶ沼津宿が見えています。その手前は狢川(むじながわ)にかかる三枚橋(さんまいはし)で、白壁の土蔵が並ぶ町は、港で栄えた三枚橋町です。狩野川には、菰をかぶった運搬用の舟が二隻係留してあります。
先を行く4人の旅人は、もう三枚橋(さんまいはし)の手前まで進んでいます。後を追う母子連れは、少しだけくたびれた様子で、杖を持つ手に力がありません。この二人連れは柄杓(ひしゃく)を持っているので、伊勢まで行く「抜参り」の二人連れですね。
いつ頃からか、伊勢を目指す旅人は柄杓(ひしゃく)を携えるようになりました。江戸時代にこれを持つ人はお伊勢参りに行く人の目印であり、道中のあちこちで施しを受けることができました。食べ物や金銭を柄杓に入れてもらえたり、ときには泊めてくれる家さえあったといわれています。しかし、近年では、これは、全国を回って芸を披露する、比丘尼の師匠と弟子ではないかとも言われています。
もうひとつ目立つのは、天狗の面を背負った旅人ですね。江戸時代には、天狗の面を背負った白装束の金毘羅道者が全国を巡って金毘羅信仰を普及していました。また、全国各地の講から讃岐の金毘羅大権現を詣でる際には、天狗の面を背負って讃岐象頭山(さぬきぞうずさん)を目指す習俗も生まれていました。しかし、これも近年では、伊勢の先、尾鷲の天狗倉山(てんぐらさん)を目指す修験者ではないか、という説も生まれています。
ここでひとつ疑問が湧いてきます。まず採用しなかった、私が後摺りだと思っているこの画をご覧ください。天狗の面と子どもの着物の朱色と、木の幹に塗られたちょっと薄い朱色のバランスが、こちらの方が自然だと思いませんか?しかし、版の潰れ具合からみると、やはりこれは後摺りのようです。
次に採用した画をご覧ください。この画は確かに初摺りのようですが、木の色と天狗の面の、濃い赤と薄い赤の配色が逆ではないかと、私は思ったのですがどうでしょう?
この後摺りだと思っている方が、自然ですよねえ。これは初摺りでの廣重の配色指示が間違っていたか、職人が版木を取り違えていたのではないかと私は思っています。
さて、隷書版は、狩野川の対岸か、今の沼津港あたりから沼津城越しに富士山を見た画になっています。ただし、松原の位置はずっと左側に寄っていたと思われます。
行書版は、沼津の名物である鰹節の製作工程を画にしています。当時沼津は、鰹節やさば節の産地で、北条氏に税金としても納められていました。薪を燃やして魚を焙乾(ばいかん)する技術が広がり、現在の「かつお節」とほぼ同様の物が流通していたようです。
狂歌入りは、富士山と愛鷹山、宿場の端である榜示杭と高札場が描かれています。このことから東海道が千本街道と別れて、沼津宿西の西間門(にしまかど)あたりを描いた画です。
実際に黄昏圖の場所に行ってきました。この先に合流するのが380号線ですが、景色として川に面していないので、ちょっと違和感がありますねえ。
こちらは、狩野川の堤防上の写真ですが、こちらの方が廣重の画の構図に近いですねえ。
この先の狢川(むじながわ)は、現在は暗渠になっていて川として存在していません。
ここで、少し変なところに気づいてしまいました。この場所は、左に狩野川なのでほぼ真西に向かっています。つまり満月が登る方向ではなく、満月が沈み、日が沈む方向に向かっています。副題の黄昏時に、満月は東から登りますから、廣重はあきらかに、この場所の方向を勘違いしていたようですね。
こちらは大手町交差点手前で、お城の周りを城郭に沿って回り込む道路の入口です。現在は川廓通り(かわぐるわどおり)と呼ばれています。この先右手には、今は公園になっていますが、天守がありました。この突き当たりから左側は狩野川の堤防ですが、江戸時代は沼津の物流を支える港の機能がありました。
この上空から、ほぼ真西を見たGoogleストリートビューもご覧ください。東海道をオレンジ色で書き足しました。こうして見ると、林があって、家がポツポツあってという当時の沼津から、大きく様変わりしているのがよく分かりますねえ。もちろん、夕日と月の入りは見られますが、今でもこの方向に月の出を、見ることはできません。
東海道はこの先、沼津の千本松原にそって、原宿に向かいます。



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