東海道五拾三次之内
御油 旅人留女
ごゆ たびびととめおんな
保永堂版 歌川広重 画
シカゴ美術館 蔵
これは、黄昏時の御油宿で、旅人と、留女と呼ばれる客引きとを、ユーモラスに描いた画です。
吉田宿から御油宿までは、約10kmという道のりでした。
豊川を渡り、しばらく行くと、江戸時代にはなかった豊川放水路を渡ります。1965年に豊川の治水のために作られました。
しばらく行くと、日本橋から57個目の伊ノ奈一里塚があります。
東海道はやがて、国道一号線と合流し、国府町(こうちょう)薮下で左の小道に入ります。当時の文献だと江戸時代は、このあたりはただの縄手道、つまり畑の広がる細い道だったようです。
東海道は、やがて右から来た姫街道と合流し音羽川を渡ると、御油宿に入ります。江戸時代には、橋を渡ったすぐ先に甘酒屋がありました。
御油宿を過ぎると、有名な、御油の松並木となります。松並木はかつて五街道の各所に存在していましたが、御油の松並木は、現存している数少ない松並木の一つです。夏は日差しを避け、冬は防風・防雪の役目を果たして旅人を守ってきました。また江戸時代の滑稽本『東海道中膝栗毛』のなかで、弥次郎兵衛と喜多八がここでキツネに化かされた話が描かれています。
もう少し進むと大きなクスノキが見えてきます。関川神社のクスノキですが、そのすぐ手前に秋葉神社があれば、そこから先は赤阪宿です。
さてここで、東海道と姫街道コースをご覧ください。見附宿から天竜川を渡った後、ほとんどの旅人が姫街道を進み、浜名湖の北を回り御油宿まで来ていました。緑色の道ですね。
その理由は舞坂から舟で渡った先にある、取り締まりの厳しい荒井の関所を回避すること、もうひとつは、災害の多い浜名湖畔を避けることでした。もっとも、東海道は距離も随分と遠回りでした。
廣重がこの画を描いた天保の頃には、この御油宿の旅籠は、100軒を越えていたと言われています。そのぐらい賑わっていた宿場町が、どうして客を取り合う画になっているかというと、直ぐとなりの赤阪宿との関係がありました。
赤阪宿と御油宿の距離は、わずか1.7kmしか離れておらず、しかも直前に東海道と姫街道が合流していました。当時、直前で増えた街道客を、赤阪宿に取られないためにも、御油宿の強引な客引きはあたりまえの手段だったわけですね。
廣重の画をご覧ください。吉田、御油、赤阪の三宿は、強引な飯盛女が有名でした。留女、あるいは「おじゃれ」と呼ばれた女達が、夕方になると客の袖を引くことに精を出し、東海道でこの三宿をそのまま通り過ぎることのできる旅人はいない、とまで言われていました。
実際、廣重の画の中に出てくる留女と呼ばれる客引きは、袖どころか、首に回した荷物にまで手をかけ、苦しがっている客まで描かれています。
しかし、その横を通る木履を履いた芸者風の女性は、さもそれが日常茶飯事のことであるかのように、一瞥をくれただけで、通り過ぎようとしています。
さらにその右で頬杖をついてみている女は、「うちはもう捕まえたから大丈夫」とばかりに、そのやりとりを見てもいません。実際に捕まえられた右の宿の旅人は、婆さんから洗い桶をもらって足を拭いているところです。
この画の素晴らしいところは、左の家々は、リズミカルな遠近法のモノクロで描かれて夜が近いことを感じさせます。右の旅籠だけは光に照らされて、道路の客まで明るく描かれていることです。
また、右の旅籠の中の丸い障子の中には、発行元の保永堂の屋号が描かれ、その右の木札には、旅籠にありがちな、講中の名前ではなく彫り師や摺師の名前が列記されています。当時、摺師や彫り師は、江戸職人の中でも最下層に位置づけられていました。特に、摺師は、馬楝(ばれん)ひとつ持った博打打ちとまで思われていました。浮世絵ではそれまでも、遊び心で、絵師の名前や出版元の屋号を入れることは、よくありましたが、彫り師、摺師の名前はでてきませんでした。研究者の間ではこのころ、浮世絵の工程に対して、なにか特別な改革とかがあったのではないかとみられています。
隷書版は、宿場ではなく、姫街道を江戸方面に行った先の本野ケ原(ほんのがはら)あたりから見える富士山を描いています。
行書版は、ちょうど音羽川を渡って、御油の宿に入ったあたりの甘酒を売る茶屋を描いています。店先には、豊川稲荷の赤い提灯もかかっています。
狂歌版は、音羽川の橋を渡り、吉田方面に、絵符を掲げた荷物を運ぶ人足たちが描かれています。この絵符は、幕府や公家などの特権階級の荷物を運ぶときに、わかりやすく掲げられていました。
そして北斎はその留女、つまり飯盛女の日常を少し色っぽく描いています。
江戸時代、公認の遊郭は江戸の吉原だけで、飯盛女に限っては「宿場の奉公人」という名目で半ば黙認された、私娼でした。江戸時代の決まりでは、飯盛女は各旅籠二人まで、従事する事が許されていました。
飯盛女はその名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者でしたが、時代とともに遊女との境目が曖昧になっていきました。
当時大ヒットした旅行記、「東海道中膝栗毛」の御油の記述には、「夜に入って、両側から出てくる留女がみんな白い面をかぶったように、顔に化粧を施し、袖を引いてくるので、そのすざまじさに辟易して、ようやくそれを振り切る」と書かれています。
どうやら廣重は、この記述をまるまる画にして、御油の画としたとされています。こうして見るとなんだか納得がいきますね。
実際にここに行ってきました。家の格好は違いますが、昔の面影も残していますね。江戸時代は夕方近くになると、100軒を越える旅籠からたくさんの留女達がでてきて、旅人に声をかけていたのですね。
これは左側からきた東海道が、赤阪方面に曲がる地点で、御油宿の中心あたりです。御油駅はこの東、400mぐらいの場所にあります。
明治維新後、御油には郡役所が置かれましたが、東海道本線の経由地に選ばれなかったため、鉄道開通後は鉄道が通じた蒲郡に、その繁栄を奪われてしまいました。その後、名鉄名古屋本線が開業時に駅を開設しましたが繁栄は戻らず、現在、名鉄御油駅は無人駅です。
これは御油宿に入る前に渡る音羽川です。地元の方の話によると、春には桜並木がとても美しい場所だそうです。
旧御油橋上空から見た、この先のGoogleストリートビューです。旅人の取り合いを演じた、赤阪宿は松並木を過ぎたすぐ先です。



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