これは、「天下の名橋」とまで謳われた矢矧橋。その橋越しに、徳川家康生誕の城・岡崎城を望んだ風景です。
藤川宿から岡崎宿までは、一里半。およそ6キロ。藤川宿を出ると、ほどなく山間を抜け、東海道は国道一号線に寄り添うように、北西へと進んでいきます。
名鉄を越えたあたりから、景色は一変します。そう、藤川の松並木。かつては、視界の大半を松が覆うほどの壮観な並木道でした。現在も旧道が一号線に合流する直前まで、その名残を見ることができます。
さて、江戸時代の東海道。本来はここで乙川を一直線に渡っていましたが、今は橋がなく、やむなく一号線へと迂回させられています。川を渡った先は大平町。ここには、あの名奉行、大岡越前守忠相。彼が築いた、西大平藩陣屋の跡が残っています。
さらに東海道は岡崎インター脇を抜け、一号線から離れて東側の小道へ。右手に現れるのが、秋葉神社の常夜灯。ここからいよいよ岡崎宿です。
拡大した地図をご覧ください。岡崎宿周辺の道は、異様なほどに折れ曲がっています。
すべては、岡崎城防衛のため。これが有名な「二十七曲がり」。その東の起点が、鏑木門。現在はロータリーとなっています。
宿場の中心は、現在の伝馬町交差点あたり。ここに本陣、問屋場など、宿場機能が集中していました。
やがて東海道は岡崎城を大きく迂回し、矢作川へ。そこは、八丁味噌の蔵が立ち並ぶ通り。その先、少し北へ進むと現れます。矢矧橋。
歌川廣重は、この橋を渡りきった地点から、岡崎城を見た構図を描いたと考えられています。その視点を、赤いグラデーションで示してみました。
岡崎城は、言うまでもなく徳川家康誕生の城。代々、譜代大名が城主を務めました。
藩主家は本多彦次郎家。石高は5万石。決して大藩ではありません。しかし
矢作川水運の要衝。家康ゆかりの城。この城主となること自体が、大名たちのステータスだったのです。岡崎宿もまた、神君生誕の城下町を背に、東海道では駿河・府中宿に次ぐ規模を誇っていました。
廣重がこの画を描いた頃、城主は本多平八郎家。忠勝以来の名門で、家臣の数も多く、その分、5万石の財政運営は相当、厳しかったようです。
では、廣重の画を詳しく見ていきましょう。
この矢矧橋。東海道で、最も長い橋でした。何度も流され、架け替えられ、最盛期には全長380メートル。橋杭は、70本。「岡崎といえば矢矧橋」それほどまでに、東海道の代名詞だったのです。
江戸時代の橋番付では、西の大関・錦帯橋。そして東の大関が、この矢矧橋。
その橋を今、参勤交代の大名行列が、岡崎城を目指して進んでいます。先頭の先箱と毛槍は、すでに橋の中央付近。先払いを先頭とする前衛。奴、先箱、槍持。続くのが、大名の駕籠廻りを中心とした本陣。さらに、傘持、茶坊主、弁当持ち、槍持。この緻密さは
一目でわかる、廣重の苦労です。
廣重は「東海道名所図會」を参考に、この画を描いたとされます。原図では行列は岡崎城側から来ています。また、橋の中央にあるはずの番所。廣重は意図的に省略したようです。
隷書版では、行列の最後尾。川には二艘の筏。乙川だけでなく、矢作川の船運も描き込まれています。
行書版では、さらに面白い。行列の後ろを、日傘を差した一般人が、ちゃっかり馬でついて行く。それを見て、楽しそうな行列最後尾の人夫。遠景には、岡崎城。
狂歌入りも同様に、岡崎城と矢矧橋、そして船運が宿場繁栄を支えたことを示しています。
さらに葛飾北斎。全国の橋を描くシリーズで、矢矧橋を描写。同じく大名行列を入れつつ、橋は太鼓橋のように、ダイナミック。
北斎はさらに、享和4年(1804年)、いわゆる「北斎東海道」でも矢矧橋を描いています。右手の神社は矢作神社。つまり、岡崎城側からの視点。廣重の画と、驚くほど似ています。
そして実際に、現地へ行ってきました。
これは、今は存在しない矢矧橋の位置から見た景色。左が現在の矢作橋。右が名鉄の鉄道橋。
1959年、復興された天守は、今やビルに囲まれ、小さく見えています。
では現在の矢作橋を、かつての矢矧橋に見立てて、岡崎城を眺めたなら。
おそらくこんな景色、だったのでしょう。
それでは、Googleストリートビューを使って、少し上空から岡崎城を見てみましょう。
岡崎城は、当時の東海地方において、三番目に数えられる規模を誇った大きな城郭でした。現在の姿からは、なかなか想像しにくいかもしれません。
しかし、明治6年、1873年。新政府による廃城令が出され、天守をはじめ、城を囲んでいた建物の多くが取り壊されます。土地は払い下げられ、その後、神社や岡崎公園として整備されました。
かつて巨大だった城は、時代の転換とともに、役割を終えたわけです。
こうして上から眺めてみると、明治維新という出来事が、徳川家とその象徴であった城に、大きな変化をもたらしたことが、よく分かります。
次に、ここに当時の矢矧橋を、青い破線で示してみましょう。非常に長い橋であることが分かりますね。この橋は、重機のない時代に、人の力だけで架けられた木造橋でした。
当時の土木技術と労力の大きさには、あらためて感心させられます。
では、視線を前方へ移しましょう。Googleストリートビューで、東海道の進行方向を見てみます。矢矧橋を渡った先、道は緩やかに曲がりながら、次の宿場町、池鯉鮒宿へと続いていきます。そして、遠くには――伊勢湾の姿も、少しずつ見えてきました。
東海道の旅は、いよいよ海へと近づいていきます。



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