07 藤澤 遊行寺

日本語版

この画は現在の遊行寺橋を渡って左に折れて江ノ島道に入り、振り返って、遊行寺を見上げた景色です。

戸塚宿から、途中「大坂」という急坂を越えて、藤澤宿までは約7.3kmあります。汲沢あたりからは現在の国道一号線に合流して、お正月の箱根駅伝と同じコースを辿ります。

当時の間の宿である原宿あたりでは、道路はより一層広くなり、渋滞の名所だった原宿交差点も立体化されました。

昔、影を食べる大蛇が住む池があったとされる、影取を越えると道は二股に分かれ、ちょっと細くなった東海道に入って行きます。

拡大した地図をご覧ください。東海道は遊行寺の手前ぐらいから、本格的な下り坂になり、お正月の箱根駅伝での大きな見せ場にもなっています。

駅伝ではこの先、まっすぐ藤澤橋を渡りますが、東海道は、信号も何もない道を右に入り、遊行寺の門を背にして遊行寺橋を渡ります。突き当たりを右に行くと東海道、左に行くと江ノ島道になります。

西に行くと藤澤宿の中心部となります。東海道6番目の宿場となる藤澤宿は、東海道の宿場整備以前から遊行寺の門前町として栄えていて、幕末の頃には70軒以上の旅籠があったと伝えられています。
本陣を越えると八王子道の追分もあり、引地川も越えてさらに西に行くと現在の辻堂駅北側あたりで、大山道とも分岐していました。

広重の画を見てきましょう。
この黒く描かれている鳥居は、江ノ島弁財天の一の鳥居で、これをくぐって右方向に行くと、江ノ島道となり、約4キロほどで江ノ島に達します。江ノ島弁財天は、検校の杉山和一(すぎやまわいち)の影響から、江戸時代にはたくさんの座頭が、江ノ島弁財天に参詣に訪れていました。

青く描かれているのは、町田方面から流れている境川で、そこに架かる橋が遊行寺橋ですが、この当時は、大鋸橋(だいぎりばし)と呼ばれていました。今、この橋を渡って、女性二人が遊行寺に向かおうとしていて、橋の向こうからは木太刀を背負った一行がこちらに渡ってきてます。この一行は大山詣に行く途中の大山講の人たちです。
上の方の霞雲の先、長く青い階段を見せているのが、遊行寺です。

隷書版は西方向から鳥居と遊行寺橋を描いたものです。遊行寺橋を渡ったところが、鳥居を中心に小さい広場のようになっていて、藤澤宿の賑やかさが伝わってきますね。鳥居下には、灯籠になっている道標がも見えています。

行書版は橋と鳥居を描いたものですが、江ノ島道の角には石造りのシンプルな道標が見えていて、鳥居には弁財天の扁額が掛かっています。大山講の一行は今、遊行寺橋を渡って帰っていくところです。

狂歌入りは、遊行寺側から橋と鳥居を見たものです。籠屋がくぐっている鳥居と柳の木をそのまま左に行くと江ノ島に行きます。家と家との間を右方向に行くと東海道で、藤澤宿の本陣方面にむかいます。

道路の位置関係を見るために、GoogleMAPのストリートビューに、当時の東海道と江の島道の関係をオレンジ色で再現してみました。

これに、赤いグラデーションの広重の視点と鳥居を描き入れてみます。右からやって来た東海道が、遊行寺橋を渡って、鳥居をくぐってこちら側にくると江ノ島道、くぐらずに向こう側に行って道なり左に曲がっていくと藤澤宿本陣です。これを見ても、広重の視点から、同じ画面に遊行寺を入れるのはちょっと無理があることがわかりますね。

そこで画に戻って見てみると遊行寺の手前で、霞雲を使い、方向を調節しているかのようにもとれますね。いずれにしても、藤澤を描くなら、当時、遊行念仏の根本道場として名高い遊行寺を外すわけにはいかなかったのでしょうねえ。むしろ広重の画のまとめ方のうまさを感じてしまいますねえ。

実際にここに行ってみた写真がこれです。鳥居はありませんが、江ノ島道の案内用石柱は残っています。遊行寺橋は、真ん中の白い建物の後ろにわずかに見えていますが、赤い鉄製になっています。当時は、この白い建物の前に鳥居があったようです。

同じ視点から遊行寺を見てみるとかなり右を向くことになります。左側にわずかに赤く見えているのが、遊行寺橋です。

これが遊行寺橋を背にして見た、遊行寺の門です。築地塀に囲まれたシンプルなな冠木門(かぶきもん)です。正式名は、藤澤山無量光院清浄光寺(とうたくさん むりょうこういん しょうじょうこうじ)といいます。時宗開祖の一遍上人より数えて4代目の呑海上人開山ですが、時宗274寺の総本山です。庶民を極楽浄土に導く阿弥陀如来像を本尊に持つ、1325年に創建された由緒あるお寺さんです。

これは東海道名所図會で描かれた、遊行寺の鳥瞰図です。広重はこの画を参考にした、といわれています。

これが広重の画の鳥居の4km先にある江の島です。当時は、周囲を崖に囲まれ、岸から少し離れた古来からの修業の場でしたが、今は神奈川随一の観光地です。
江ノ島弁財天は、歌舞伎など音曲に関連する職業の守護神です。特に杉山検校が、鍼を管に通して打つ管鍼(くだばり)と呼ばれる鍼術(しんじゅつ)を弁財天への祈祷から授かりました。この妙技は将軍綱吉から絶大な信頼を得て、杉山検校は関八州の盲人を統括する「惣禄検校(そうろくけんぎょう)」となることができました。現在藤澤市内に残る12基の道標は、目の見えない人でもわかるように、杉山検校が建てたものだと言われています。

こんな理由で、江戸時代の座頭は、こぞって江ノ島弁財天をめざしたしたと伝えられていますが、江の島は浮世絵にも描かれ、歌舞伎の舞台となるなど、江戸時代の観光地としてはとても有名な場所でした。この画は、広重が弁財天ご開帳の賑わいを三枚つなぎの画で描いたものです。

これが伊勢原あたりから見た大山です。古くからの山岳信仰の山で、雨乞いの対象として有名でした。江戸時代には、職人や鳶の間で大人気となり、江戸の各地に大山講が作られ、長屋などでまとまって参詣するのが行事となっていました。

また、落語の「大山詣」にもあるように、精進落として参詣の後には必ず江の島、鎌倉、金澤に立ち寄る観光ルートが確立されていました。この画は葛飾北斎が大山詣の途中にある有名な瀧を描いたものです。ここでも講の人たちは木太刀を持っていますね。

葛飾北斎は、鎌倉、江ノ島、大山を回る観光双六も作っていました。日本橋から始まって、42ヶ所の楽しそうな画が並んでいます。当時このあたりは相当有名な観光地だったことが分かりますね。

GoogleMAPストリートビューで、遊行寺上空からこの先を見てみました。
広重は、この藤澤を、宗教が交差する場と考えていたのかもしれません。情報の少ない江戸時代において、すがる気持ちを人間以外の力に頼り、それを旅という楽しみにまで昇華していった江戸庶民はすごいですね。もちろん、描かれてはいませんが、東海道ですから、伊勢詣りや秋葉詣の旅人もたくさん通っていたはずです。
東海道は、藤澤宿から小田急線を越え、ほぼ真西に進み平塚宿を目指します。ずっと先に富士山も見えてきました。

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